大宅賞作家の星野博美氏が、なぜか「免許取得」の本を出すと言う。免許といっても飛行機などではなく、普通の自動車だ。なぜそのような経験を本に？　新刊案内を見た時、売り手としてはあまりピンとこなかったことを最初に告白しておく。
　昨年発売された『コンニャク屋漂流記』（文藝春秋）を思い出した。「自分のルーツはどこにあるのか」というごく個人的な疑問を、あれだけスケールの大きいノンフィクションにしてしまった星野氏のこと、「免許取得」にもなにかすごいテーマが隠されているのではないか。それに、実は私も免許を持っていない。東京近郊で暮らす限りは特に困らないし、運動神経が極端に鈍い自分には絶対無理と思っていたが、たいていの大人は持っているものを取得せずにいい年になってしまったことに、何かをやり残したような気分になる時がある。「日常に小さな風穴を開けたくなった」というコピーの書かれた表紙を眺めているうちに、胸がざわざわしてきた。これはなにかの運命かもしれない、と思い早速購入した。
　人間関係に挫折をし、長年飼っていた猫を失った著者は、「救済を求めて」運転免許取得を決意する。著者が選んだのは五島列島にある自動車学校での免許合宿。合宿には年齢制限がある学校が多い中、若くない生徒も受け入れてくれてなぜか馬とふれあうことができる珍しい学校だ。規律は厳しく、島の生活を楽しむ時間のゆとりはない。縁のない土地で見知らぬ人たち（若者）と共に規律正しく学び、生活する。確かにこれは合宿免許でしか得られない体験かもしれない（というか、免許という目的がないならなるべく経験したくないことだ）。入ってしばらくは運転を楽しむ著者であるが、四十過ぎての免許取得はそう甘くなかった。感覚がなかなか身につかないことや、慣れないことに立ち向かうストレスに疲れていく。若い生徒たちが次々に卒業していく中、一人学校に取り残されてしまう挫折感は、ほぼ同世代の私にとって身につまされるものがあった。
　一方、普段の暮らしでは会うことのない多種多様な人々との交流や、動物たちとのふれあいも温かく描かれている。「日常に小さな風穴を」という思いで免許取得を決めた著者と、生活のために免許を切実に必要とする地方に生きる人々とのギャップ。長く滞在したからこそわかる島の美しさと、そこで生活する人々の苦労。合宿で免許を取るというごく一般的な体験を読んでいるはずなのに、何度も心が揺さぶられ、本に出てくる一人一人の幸せを祈りたいような気持ちになった。
　大人に（というか中年に）なってしまうと、新しいことを学ぶチャンスはなかなか訪れない、ということを、最近感じるようになった。体力も気力も好奇心も、以前より落ちていることを残念ではあるが認めざるを得ない。しかし、自動車の運転によって著者が「新しい世界」を知ったように、求めれば誰にでも機会は訪れるのではないだろうか。新しいことに（恐れつつも）飛び込む勇気、挫折はしてもそれを受け止める心の強さ、そして人から学ぼうとする真摯な心があれば、いつだってチャンスが待っていることを、この本は教えてくれたと思う。
　星野氏の本は通常、紀行やノンフィクションのコーナーに置いているが、今回は女性向けの生き方本のコーナーにも置いている。先日同世代の女性客が熱心に立ち読みしていて、お客様もこの本に何かを感じてくれたのかな、と嬉しい気持ちになった。先日、家の近所の自動車学校のＨＰを開いてみた。この本を読まなければ、絶対にしなかった行動だ。実際に免許を取るかはわからないけれど、私も著者のように、「新しい世界」を見てみたい、と思う。