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評者◆秋竜山
苦笑が一番、の巻
No.3077 ・ 2012年09月08日
自分が泣く時、どのような顔をして泣くのだろうか。泣いている時、自分の顔はみられない。みられないからといって、今、どんな顔をして泣いているか想像する、なんてことあるわけないだろう。だからといって、自分の泣き顔について考えること自体どーかしているだろう。気になって、鏡の前で、泣き顔をつくってみる。というのも、どーかしている証拠だ。これが俳優であったら、ショーバイとして泣き顔の演技というものも気にかけなければなるまい。台本に書かれた通りのさまざまな泣き顔を鏡にうつして研究してみる。これは、あくまでも営業用の泣き顔である。営業からはなれて、自分の本当の泣き顔はどのようなものか、気にすることもどーかと思う。「ヨシ!! 今回は、この泣き顔がふさわしいから、これに決めよう」なんてコントロールできるものではないだろう。泣くといえば笑いがある。笑う顔はどーだろうか。何を笑うかで笑う顔も異なるだろう。自分がどのような笑い顔をさせるか。これとて考えたこともない。しかし、泣き顔と違って笑い顔というのは鏡にむかって笑い顔をつくってみても「俺は今、馬鹿なことをしている」という気持ちにならない。洗面所の鏡にむかって、ニコッとしてみる。そして、「ヨシ!!」なんて気合いのような声をだす。自分は人前でこのような顔で笑っているということは想像できる。はたして人様は自分の笑い顔をどのようにヒョーカしているか。もしかしたら、「あいつの笑い顔は下品だ」なんてことになったら、どーしましょう。『井上ひさしの読書眼鏡』(中央公論新社、本体一三〇〇円)、に〈「苦笑の人」清張の本質〉という文章がある。
〈松本清張さん(一九〇九‐九二)は、たしかに大笑いをしない人でした。〉(本書より) そーいえば松本清張さんの大笑いをしている写真などみたこともない。それが、松本清張らしくて、井上さんのそれだけの文章を読んだだけで笑いたくなってくる。 〈カカカと大口を開けて笑ったりしない。むしろ周囲の方が、清張さんのあることを見てカカカと笑う。そんな人でした。(略)わたしたちは、ほっとして思わず大笑いしましたが、清張さんはかすかに方頬をゆがめて苦笑しただけでした。それはなんだか寂しそうな苦笑でした。〉(本書より) 実は、私はみたんですよ。清張さんの大笑いするのを。大口を開けてね!! なんて人はいないだろうか。どうも期待できないようだ。 〈こんど出た宮田毬栄さんの「追憶の作家たち」(文春新書)(略)そのなかにこんな数行がありました。「思えば松本清張は苦笑の人であった。三十三年にわたる長い年月の間、私は清張さんの哄笑を見たことがない。屈託ある複雑な笑いが身についていただろうか。」〉(本書より) やっぱり、苦笑の大文豪であったのか。笑いではないが、ある画商が冗談?にいったことがあった。日本画家というのは常に口をへの字にしていなければいけない。一言口を開くことによって画の値段がガクッとさがる。二言三言で、ガクッガクッガクッとさがる。秋さんよかったね日本画家にならなくて。そーいわれて私は大笑いした。画商も大笑い。苦笑が一番。 |
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