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評者◆沢田史郎(丸善津田沼店、千葉県習志野市)
生きていくのがしんどくなった人へ──宮本輝著『草原の椅子 上・下』(本体上:631円/下:670円、新潮文庫)
No.3077 ・ 2012年09月08日
【ごきげんよう。なによりも、快活でいらっしゃるように。人生をあまりむずかしく考えてはいけません。おそらくほんとうはもっとずっと簡単なものなのでしょうから】
どうです、味のある良い言葉だと思いません? 実はこれ、ロシアの文豪・チェーホフが、恋人だか友人だかに宛てた手紙の一節だそうで、私の場合は、思い出す度にちょっと肩が軽くなる。そして『草原の椅子』の主人公・遠間憲太郎も、人生の選択に怯んだ際に右の言葉を胸の内で呟きながら、自分自身の背中を押して新たな一歩を踏み出していく。 その憲太郎の意中の人・篠原貴志子は、ネイティブアメリカンの有名な叙事詩「今日は死ぬのにもってこいの日だ」をこう言い替えて、毎朝自分を励ましている。曰く、 【今日は、生きるのにもってこいの日だ】 人生とは、誰にとっても生きるに値するものだ――。宮本輝さんの作品を読むといつも、柄にも無くそんな前向きなことを考える。『草原の椅子』は、数多ある宮本文学の中でもとりわけ好きな作品で、思考が淀んだ時に何度となく読み返し、励まされてきた座右の書。九月に新刊『水のかたち』(集英社)が発売されると聞いて待ち切れず、取り敢えず先にこちらを再読。 とは言え、物語にははっきりした起承転結がある訳ではなく、五十歳の遠間憲太郎が、何人かの魅力的な人物に出会い、絆を深めてゆくという、乱暴に端折ってしまえばただそれだけの話である。 が、その人物たちが実に好い! こんな連中と友達になれたら、人生が随分楽しくなるんではなかろうか。 例えば、或る事件をきっかけに憲太郎の親友になる富樫重蔵。中卒からの叩き上げで関西でも指折りの家電量販店を経営するまでになっただけに、生き方の腰が据わっていて頼もしいことこの上ない。 【人情のかけらもないものは、どんなに理屈が通ってても正義やおまへん】 なんてセリフをポロリと吐く。こういうオヤジに、私はなりたい。 或いは、ひょんなことから憲太郎とつながりが出来た、写真家の卵の鍵山青年。彼の最初の作品集のテーマが好い。曰く、 《楽しいもの。幸福を感じるもの。美しいもの。荘厳なもの。笑いがあるもの。気持ちのいいもの。それらを中心として、人間の心について考えてしまうもの》 って、そんな写真集なら、一度見てみたいもんだと思うでしょう? 更に、この物語にとってある意味では最も重要なキャラクターが、僅か五歳の喜多川圭輔。実の母親から虐待を受け続けていた為に、外界に対して完全に心を閉ざした幼子が、前述の富樫や貴志子、憲太郎の娘の大学生・弥生など、憲太郎と彼を取り巻く人々との触れ合いの中で、少しずつ癒されていく様は、それだけでもこの長い小説を読む価値は充分にある。 要するにこの作品は、遠間憲太郎という五十男が、たまたま幾人かの心根の豊かな人々と知り合って互いに理解を深め合い、結果として皆でタクラマカン砂漠からパキスタンを巡る旅行に赴くというただそれだけの話なんだが、そういった話の筋よりも、憲太郎が経験する出会いや育む友情、感じた怒りや失望、見出す希望etcを追体験出来るのが、本書の一番の魅力であると断言したい。 宮本さんは「あとがき」の中で、「おとな」についてこう語っている。曰く、 《幾多の経験を積み、人を許すことができ、言ってはならないことは決して口にせず、人間の振る舞いを知悉していて、品性とユーモアと忍耐力を持つ偉大な楽天家》 と。そんな素敵な「おとな」たちが、悩み、傷つき、途惑いながら、それでも前を向いて歩き出す、そんな姿を描いたのが『草原の椅子』だと、私は思う。生きていくのがちょっとしんどくなった時に、試しにページを開いてみて下さい。 |
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