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評者◆秋竜山
窓からコンニチハ、の巻
No.3076 ・ 2012年09月01日
浜本隆志『「窓」の思想史――日本とヨーロッパの建築表象論』(筑摩書房、本体一六〇〇円)では、〈現代は「窓の時代」である〉と、いう。そのような本である。この本とは関係ないが、私にとって窓からの連想はガラスである。窓ガラス。窓はガラスによって成り立っている。ガラスのない窓なんてないではないか、と思えるほどだ。それが、都会の恐怖にむすびつく。都会の高層ビル。「高いなァ!!」と、一瞬頭の中をよぎって終わってしまう。「ちょっと待てよ」となった時、窓の数はいったいどれくらいあるのか考える。実際にはそんなことを考える人は一人もいないだろう。もし数えていて、「なにをしているんですか?」と、不思議そうにたずねられて、「ハイ、窓の数を数えているんです」なんて答えようものなら、「コイツ、バカか!!」と、いうことになるだろう。窓の数とはガラスの数である。正確にはガラスの数ということだ。そして、それが恐怖とは、一斉にガラスが落下した時、もしかすると、それはソーテー外ということになるのか。高層ビルとは窓ガラスが天にむかって、そびえ立っていると思ってよいだろう。
〈巨大な「ガラスの箱」のような「窓の増殖現象」〉(本書より) いっそのこと、高層ビルの下へはり紙をしてほしい。「窓ガラスの落下に御注意」と、ね。テレビを「社会の窓」ともたとえていう。よくわかるたとえである。ブラウン管に映し出されるのは社会であり、世の中の同時映像である。 〈映画の変形ともいうべきテレビが一九五三年から放送され始め、またたく間に二十世紀後半の最大の映像メディアに成長した。(略)このような映像メディアは、窓の機能と合体して進化を遂げ、娯楽、情報収集、コミュニケーションのあり方のみならず、ライフスタイルまで変化させてきた。たしかに映画やテレビというメディアは、一方的な発信装置で、見る側は選択ができるけれども、たえず受動的である。〉(本書より) たしかに一方的な受動的かもしれない。それはそれでよく考えていただきたいものだ。それよりなにより、テレビの力というものは絶大であり、テレビを観ていると利口になるというものだ。テレビの観すぎは馬鹿になる!! といった意見もあるようだが、私はそうは思わない。むしろ、テレビを観ないと馬鹿になるということだろう。それほどに、テレビは即現代であるだろう。現代を知るにはテレビの社会の窓から時代を読みとることだろう。テレビに追いてきぼりをくうことは怖いことだ。茶の間にいながらにして、寝ころがって世の中の動勢を知るなんて、なんて便利な世の中になったものかたのしくて仕方がない。ちょっと気になるのは、何かの問題が起きた時、街頭質問にテレビのコメンテーターが言ってたこととまったく同じことを答えているということだ。どこかで聞いたようなことを言っていると思えたら、間違いなくテレビの物まねである。 〈これからは主体性の点からいえば、制作者、発信元がイニシアティヴを握っている方式といえる。〉(本書より) 今度はインターネットの窓の時代か。言いたいことを言いあえるよき時代か。インターネットの使いかたがわからない人は、言いたいことも言えない人間となる。 |
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