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評者◆添田 馨
「人間の言語」を超えた世界の側からの声──東日本大震災とそれに続く原発事故に潜む「詩的真実のようなもの」
No.3076 ・ 2012年09月01日
『夢よりも深い覚醒へ──3・11後の哲学』(岩波新書)のなかで大澤真幸は、東日本大震災とそれに続く原発事故に関して、そこには「詩的真実のようなもの」があると述べている。「詩」とは言語でありながら、言語自身を超え出ていくものであり、しかしその表出力はあくまで言語に内在しているものと見なすことができよう。震災と原発事故には、これと類似した本質が宿っている。しかも、それは見かけ上のことではなく、これら一連の出来事の根底つまり余計なものを削ぎ落とした「台座」の部分で、まさにそうなのだと言っている。
大澤の視点は徹底していて、原発の問題は単に“原子力発電”の問題なのではなく、わが国の戦後=後の社会システム全体の問題、つまり普遍的な課題としてそれは現在に浮上しているのだという。原発事故という個別の「出来事」を通して、それをはるかに超越した神のような“普遍”がそこに顔を覗かせるのだ。こうした特異な相を捉えて、大澤は「詩的真実のようなもの」と述べているのだろう。耳慣れない語法だが、私にはきわめて妥当なリテラシーと映る。 恐らく、これと表裏のことを瀬尾育生は『純粋言語論』(五柳書院)で展開している。同名のエッセイのなかで、瀬尾はハイデガーとベンヤミンを援用しつつ、今般の震災は実は「純粋言語の問題」だったと述べている。一体どういうことか? 「普段は人間が自然の状態をコントロールしていると思っているから、「純粋言語」は「人間の言語」に翻訳され取り込まれている。ところがそれが制御できなくなって、「純粋言語」が直接語りだすということが起こった。それが地震であり、津波であった」(17頁)。──そして、こうした事態はわれわれの内面においても共時的に引き起こされたはずであり、それを瀬尾は「存在災害」という概念で描きだしている。 「存在災害」が人間の言語に翻訳できない、いわば内部化された「純粋言語」としての“外傷”であるなら、大澤のいう「詩的真実のようなもの」と、それはどこかで恐らく重なり合う。3・11以降、私たちの意識と行動に変化をもたらしているのは、「人間の言語」を超えた世界の側からの、こうした呼びかけ(声)に他ならない。 (詩人・批評家) |
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