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評者◆杉本真維子
「若さ かなしさ」
No.3071 ・ 2012年07月21日
永瀬清子『あけがたにくる人よ』(思潮社 思潮ライブラリー・名著名詩選)を初めて読んだとき、有名な「女の戦い」をはじめ、この一冊に人生のぜんぶが書いてあるじゃないかと仰天した。「ぜんぶが書いてある」とはどういう意味なのか、いまも説明できないが、説明できないところに、詩とは何か、生とは何かという問いが交差している。他者の人生を読むことで、なぜか自分が更新される爽快感。もっさりと私を覆っていた何かが、きれいに剥けおちた気がした。
「若さ かなしさ」という作品がある。ここには、病室から最期の電話をしてきた年配の紳士に、終始冷たい言葉を発してしまった後悔が書かれている。この詩の痛みが、自分の十代や二十代のころの失態と重なって、〝自分が傷ついた思い出よりも、他人を傷つけた思い出のほうが消えない〟という、誰かの言葉をふと思いだす。たしかに、他人を傷つけた記憶は、それを忘れているような時間においても、黒い小石のような後ろめたさが、ずりずりと心底を擦っているような気がする。この黒い小石とは、「若さ かなしさ」という詩そのものでもあって、ここまで事物に近づける詩がある、ということにも陶然となる。 傷つけてしまった人に、今となっては詫びることさえ不可能であることを思うと、ずっと消えない苦い気持は、自分への救済的な罰、ともいえるだろうか。でも、こう書いているうちに“自分が傷ついた思い出よりも、他人を傷つけた思い出のほうが消えない”という言葉の嘘を感じてきた。ほんとうは、自分が傷ついたことだって覚えている。 自分が傷ついた思い出は、知らぬ間に記憶の底のぬかるみに沈められ、その輪郭が曖昧になるよう、泥で塗りたくられているのかもしれない。その隠蔽の仕方は、少し狡猾な匂いを持っていて、人が生きるための本能を思わせる。なぜなら、自分の傷心をずっと覚えていると認識することは、自分が傷つけた他者もその痛みを覚えている、という事実を引き出すからだ。それを想像することは、生きていけないくらいの恐怖である。 この作品では、大人は完璧なはず、と信じ込んでいる少女の気持ちが、思いがけず残酷に傾く場面を見る。たとえば「あの人は私よりずっと年上だし/学識のあるちゃんとした物判りのいい紳士/そんなに悲しい筈はないと若い私は思っていたのだ」という告白は、私の告白でもあるが、八十代にさしかかった詩人が書いた、というところが感慨深い。 「その時瀕死の力をこめて私を呼んでいたのに/そして波のように私にぶつかりなぐさめられたかったのに――/「人間ってそんなものよ」「病気ってそんなものよ」/私はああ、恐ろしいほどのつめたさ/若さ、思いやりのなさ/そそり立つ岩さながら――」 共感しつつも、私は書き写すだけで、こわくて指先がふるえた。たぶん「若さ」を少し過ぎたくらいの年齢では、傷つけた痛みに負けて、こうは書けないと思う。長い歳月を経て、ようやく言葉にできるものが、この世にはあるのだ。 小学生の頃、担任の男の先生が泣いている姿を見たことがある。卒業式の後の教室で、黒板のほうを向いて「お前たちはいいけど、先生はひとりになっちゃうからな」と肩と声をふるわせて言った。先生が泣いている…それは私にとってたいへんな衝撃だった。敬愛する先生だったからこそ、自分と同じように悲しんだり、傷ついたりする心があるなんて、たぶん一度も考えなかった(人間である前に「先生」だったのだ)。その涙への驚きのなかに、小さな残酷が、敬愛の念とともに光った気がする。その光が痛いのに、どこか甘くて、大切にしたいとさえ思うあの気持ちを、どんなふうにも名づけることができない。 (詩人) |
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