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評者◆金菱清
「書きたい人」が書くのではなく、「書けない人」が書いた3・11の記録――未来への減災を被災者の目線で問いかける
3・11 慟哭の記録――71人が体感した大津波・原発・巨大地震
金菱清
No.3071 ・ 2012年07月21日
3・11東日本大震災について、その被災者の体験を綴った本は多数出版されている。そんななか、震災後、まだ復興の初期から東北学院大学の学生も参加して進められたプロジェクトが『3・11 慟哭の記録』(新曜社)として刊行された。多くの3・11関連本が聞き書きであるのに対し、震災直後から約半年までに七十一人の被災者本人が体験したことを文章で書いてもらったというところが、本書が他書と大きく異なる点ではないだろうか。聞き書きにせず、書き言葉に拘ったのはなぜなのだろうか。金菱氏に問うてみる。
「聞き書きだと、前後の文脈がわからなくなってしまい、「聞き手が聞きたいことだけを聞いてしまう」ということが言えると思います。体験を文章で綴ってもらおうとお願いをしたときに、インタビューだったら応じるという人も結構いました。インタビューの方がすぐに話が聞けて、目の前で反応してくれるのは確かです。しかし、記録として残すうえでは本人に書いてもらった方が長く残っていくのではないかと考えました。それと、インタビュー形式のものは新聞記者がやるだろうと思ったこともあります。 この本を作るもともとのきっかけとなったのは、阪神・淡路大震災の経験です。あのときに、私は大阪でも兵庫にごく近いところにいました。ちょうど大学に入学する直前だったんですが、通学路が瓦礫の山になっていたり、二階建ての建物の一階がつぶれて二階が一階になっていたり、新幹線の高架が落ちていたり、日常生活ではありえない風景を眼前にしました。そのときにマスコミは、横倒れになった高速道路だけを何度も映し、長田区の火災の現場だけを何度も報じ続けた。あれから僕は、マスコミの持っている暴力性についてずっと違和感を抱えていました。そして今回の3・11の被害についての報道でも、津波の映像が大量に流れましたよね。でもそれだけではだめなんです。1・17という阪神・淡路大震災をうけての僕なりの立ち返り方をしなければならないということから、この惨事をひとつのまとまりをもった本として記録に残そうと考えました。 マスコミが扱うものは津波と原発で終わってしまうことが多いですよね。内陸部で被災した人にとっては、地震の部分で経験したトピックというのは随分とあるんです。新幹線内で被災し、十四時間に亘って閉じこめられてしまった人、自宅に戻れず、避難所と車の中で寝泊まりをした結果、お母さんがエコノミークラス症候群になり心肺停止に至りながら生還するという体験をした人にも書いてもらいました」 3・11を扱った本としては、写真が挿入されていないということも特徴だ。これは「いい意味で」だが、「ただただ、文章がここにある」というような、全体として、大変な経験が静謐な文章で綴られている印象が強く残る。 「本のデザイナーからは写真をつかいたいと言われましたが、僕は断固として拒否しました。写真をつかってしまうと、この本の意味はなくなってしまう。十年、十五年、そしてさらに長く残していくことを考えると、写真が持つ役割はすでにマスコミによって果たされているので、文字だけでいくことにしました。大きく言えば、「写真とは文章そのもの」だと僕は思っています。つまりそれは撮る人間の心を通して撮る心象写真という意味で、です」 忘れてはならないのは、金菱氏もプロジェクトに携わった学生たちも、被害の大小はあるにしろ、仙台あるいはその周辺で被災しているということだ。自らの周囲も復興段階にありながら、他者の声も集めていくことになるのだから、作業は疲労と困難を伴うものだったことは想像に難くない。そして、七十一人の人びとが、震災後半年も経たない復興のさなかに自らの体験を書き綴ってくれた協力体制・信頼関係は驚くべきものだ。 職業や立場の多様性も興味深い。たとえば、漁業に携わる人の書いた文章を読む機会は少ないのではないか。震災関連の事柄ではよく「絆」という言葉が使われるが、そういうことに特化せず、日常的に存在する、人と人との緩やかな繋がりを感じる。なかには福島第一原発に勤務していた人、女川原発を見学中に被災した人と、驚くような書き手も含まれている。 「若干の入れ替わりはあったのですが、基本的には10人のメンバーで学生の家族、知人と、つてをたどって原稿を集めていきました。募集にしてしまうと、「書きたい人」が書くだけになってしまう。そうではなくて、「書けない人の記録」ということを考えました。学生のもっている資源、大学の持っているネットワークが非常にうまく機能したと思います。これほど資源は眠っているのかと、この記録プロジェクトをやってみて改めてわかりました。こういった形でまとめる際には、字数制限をすることが普通だと思いますが、今回は無制限にしたんです。事の前後の文脈が大事だと思ったので、凝縮せずすべて書いてもらう方針をとりました。そのうえで、書いてもらったものに加筆説明をしてもらい、書いてもらった人の地域が、トピックがより見えるようにと工夫をしていきました」 註を付けたりカットをしたりしてしまえばそれまでのことも、あえて何度も遣り取りをして、本人に書いてもらうことで浮かびあがってくるものがある。 「丹野さんという女川で家族を亡くされた方が書いてくれたことです。亡くなった家族の「仮土葬」をめぐる記述が出てきます。新聞で仮土葬が行なわれていることは知っていましたが、何をやっているかは全然わかりませんでした。手続きはどうやっているのか、実際に遺族はどう思っているのか、この二点を疑問に思っていたのは私だけではないと思い、本人にずいぶんと加筆をしてもらいました。あとで聞くと、その部分は丹野さん自身にとってつらい部分で、「書きたいんだけれど書けない」というような気持ちだったそうです。しかし、そこを書いてもらった結果、怒り、やるせなさといったことが本当に強く伝わってきました」 「記録として残すことは読み手だけではなく、書き手にとっても必要だったのではないかと思っています。お子さんを亡くされた親御さんは、この手記を書いて何度も筆がとまったけれども、記録として、いつでも息子がこうやって本を開ければ蘇ってくるので、遺影の前に置いて「一生の宝」だと仰っていました。それと同時に、同じくお子さんを亡くされた御遺族から電話がかかってきて、今まで一人だと思っていたけれども、同じ気持ちを持っている人がいて、涙が止まりませんでしたと声をかけてくれる人もいるそうです。本書はそんな御遺族の心に寄り添い、かつ未来への減災を被災者の目線で問いかけるものになりつつあります」 この記録は読み物としてだけでなく、未曾有の災害についての重要な一次資料として、後のちまで残っていくことになるだろう。 ▲金菱清(かねびし・きよし)氏=1975年大阪府生まれ。社会学博士。現在、東北学院大学教養学部准教授。著書に『生きられた法の社会学』、『体感する社会学』(ともに新曜社)。 |
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