|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆秋竜山
私の黄金時代、の巻
No.3065 ・ 2012年06月09日
自分には黄金時代というものがあっただろうか。あったとしたら、いつ頃だったろうか。なんて、思う。のも、
〈「戦時下の生活がどんなに不自由かつ苦しいものだったとしても、昭和二十年以前、つまり私の黄金時代は、私にとって光りかがやいている」と兄は書いている。その光り輝く黄金時代を兄とともに過ごせたことを、私はいま、幸せに思っている。〉(解説‐澁澤幸子) とある。澁澤龍 『私の少年時代』(河出文庫、本体九五〇円)を読む。著者は〈一九二八‐八七年〉と、いうから、その黄金時代「光りかがやく子ども時」(十二歳=終戦前まで)の、うらやましいくらいの幼年期の思い出が、本書に綴られている。本書の表紙に使用されている写真は、その時代のいわゆる「おぼっちゃん」そのもののスタイルの子供姿である。ぼっちゃん刈りという男の子でも女の子に似た髪の毛。そして、白い大きなエリの洋服。この写真を見ただけで、著者が、その時代にどのような生活様式の中で生活していたのか充分にわかるというものだ。私などには住む生活が違うなどと思わせられたものであった。都会の子供。田舎でも一人か二人ぐらいは、このような格好をさせられた子供がいたものである。そして、あだ名が「ぼっちゃん」であり、みんなそう呼んでいた。本書を読むと、時代の空気感がそうさせるのか、やたらとなつかしく、よくわかる。「そーだったなァ……」と、なつかしさがこみあげてくる。チンドン屋のことなどが書かれてある。 〈近ごろ、街でチンドン屋が一向に見られなくなったのは、さびしいことだと私はつねづね思っている。あれも昭和初年の流行現象として、いまでは忘れ去られてゆく運命にある風俗の一つなのだろうか。〉(本書より) チンドン屋と聞いただけで、胸がキューンとしてくる。 〈一世を風靡した「サーカスの唄」の一節だが、どういうわけか、チンドン屋にもクラリネットは付きもので、私の記憶している範囲では、クラリネットがいつも物悲しいメロディーを奏していたような気がする。チンドン屋の奏楽は、必ずしも陽気でにぎにぎしいとはかぎらない。いまも述べたように、へんに物悲しいところもあって、ハメルンの笛吹きのように、子どもたちを否応なく惹きつけるものである。私はチンドン屋のあとについて、街をどこまでも歩いていった記憶がある。〉(本書より) 昭和二十年代後半になるが、私がチンドン屋の後をついてまわる少年時代の記憶が鮮明に残っている。ちっちゃな漁村であった。年に二、三回か、ドサ廻りの芝居がやってくる。夜の公演、昼の内にチンドン屋を仕たてて村をねり歩く。それを村の子供たちとして参加となる。毎回、私はその中にまじっていた。よっぽど引かれるものがあったんだろう。「御当地のみなさま~」なんて口上を述べたりする。「チンチンドンドン、チンドンドン」というメロディが村中にひびきわたった。ゴラクのない村では大人小人も同じ気持で、胸おどらせたものであった。アア……あの時代!! というセリフが出てきてしまう。やっぱり黄金時代であった。本書では〈漫画オンパレード〉という中で戦前漫画のことが書かれてある。戦後の漫画ではなく、もう誰も知らない時代だ。残念ながら書くスペース切れ。 |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||