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評者◆吉田文憲
私はなぜここにおり、そこにいなかったのか――人も物も偶然と必然のあわいをさまよっている「わたしがいなかった街で」(柴崎友香、『新潮』)
No.3061 ・ 2012年05月05日




 大震災のとき、私の弟の妻は、沖縄から来た友人を迎えに行くために、仙台空港へ向かって車を走らせていた。途中、忘れ物に気付き、家へ引き返した。その途上で地震に遭遇した。一方、若林区に住む弟は、家の下敷になり、大ケガをした。弟の妻は、あのとき仙台空港にいなかった。家にもいなかった。引き返したその途上の東部高速道路のうえにいた。そこにいなくて、ここにいた。だがそこにいることもありえたのだ。これはたんなる偶然だろうか。
 柴崎友香「わたしがいなかった街で」(『新潮』)を読みながら、私はそんなことを考えた。この物語に「私のいる場所をここからそこへ変える。/そこから、ここへ。/今は、ここにいた」と記される箇所がある。これは、五年住んだ墨田区のマンションから、以前住んだことのある世田谷区若林に引っ越してきたときの主人公の感慨といっていいものだが、この三五〇枚に及ぶ長篇は、一貫して、私はなぜここにおり、そこにいなかったのか、という問いに突き当たり、突き動かされているように思われた。それを仮に偶然性の問題と言い換えてみようか。だがそれはときにその後の成り行きによって、事後的に、たとえば運命や必然といった大仰な言葉を呼び寄せてしまうこともある。あの人と出会ったのは運命だと思ったり、また世田谷の若林に戻ってきたことには何かしら因果めいたものがあると思ったり。こういう人間の事後心理をベルクソンは「回顧的錯覚」と呼んだ。
 けれどもこの物語は、そういうことをどこかで意識しつつも、それが運命や必然等々といった或る物語的な解釈や事後的な枠組みに回収されることには強く抗っている。主人公は三十六歳の独身女性。東京へ出てきて十年。離婚を経験し、いまは大手商社の下請けの物流会社に勤めている。彼女は思う。マウスとキーボードにより作成された自分の書類で、実際には「見たことも触ったこともない材料や商品」が、海を越えて、これもまた「見たことも行ったこともない場所へ行く」。そのどこに必然があり、どこまでが偶然なのだろうか、と。この物語は、人も物もその偶然と必然のあわいをさまよっている。いやむしろ、何の因果もなくここにいる、裸でここに投げ出されて在る、そのことがすべてなのだ、と主張しているようにみえる。
 後半に、「わたしは、かつて誰かが生きていた場所を、生きていた」という一文がある。おそらくこれが、この物語の発見した場所である。この物語が見事なのは、この「誰か」の場所が「私」の場所でもある二重性、あるいはその不可避な恣意性をけっして手放さないことだ。自分もまたその単独者、この場所で、その個別性を生きつつ「誰か」であるという他者への可能性を孕んだ開かれ方、といったらいいだろうか。
 題名の「わたしがいなかった」の「いなかった」は、そこにかつて誰かがいた、これからも誰かがいる、といった、そこに開かれた見知らぬ他者への、生の関係性への新しい可能性を語るものである。物語の中にしばしばかつて同じ若林に住んでいた作家海野十三の「戦災日記」が挿入されるのはそのためだ。それはここに「かつて誰かが生きていた」、その不在証明なのである。
 そしてものを書くとは、「かつてわたしがここに生きていた(いまここに生きている)」そのゴーストの不在証明のようなものではないか、という強い思いがここにはある。ここはいつでもそこなのだ。
 この主人公の、覚醒した浮遊感覚、生きる場所を、移動するゼロ地点と呼んでもいいだろうか。
 川上未映子「お花畑自身」(『群像』)も面白い。これは題名の「自身」というところがポイントだろうか。夫が破産し、家を売ることになった女性が、これまで念入りに手を入れ育ててきた花壇に対する愛着(むしろ執着)から、最後は家を買った女性の「あなたがお花畑の一部になるんですよ」という悪魔の声、天からの啓示のような声に導かれて、自分で花壇に掘った穴の中に横たわり、埋められてしまうという話である。自身が愛の対象であるお花畑自身と同一化してしまう。対象を失った愛が、その深い喪失感とともに恍惚と、最後は狂燥に一変する、といったらいいだろうか。
 究極のナルシシズム、フェティシズムといってもいいが、この物語がことさらのようにいい年の大人の女たちの「頭に綿菓子をつめてるような十代の少女たち」の少女趣味のアイテムを生き、それを全篇に記号のように散りばめ煽りたてていることを考えると、物語の底には、どこか一点ブラックホールのような或る凄みさえ感じさせる作者の覚醒した目が光っている。
 柴崎友香の作品が「わたしがいなかった街」に見知らぬ他者、あるいは見知らぬ隣人を持つことの恵みのようなものをそこに発見しているとすれば、川上作品は愛の対象の喪失と、その喪失ゆえの執着が、なにか人間の力を超えたもの(「お花畑」はそういう魔力の場所なのだろう)、永遠とか死とかいった未知の言葉、だから言葉では語れない場所に人を運び去ってしまういわば「鏡の中の錯乱」を描いている。これも現代のお伽話かもしれないが、お伽話はいつでも無気味なものを秘めて善悪の彼岸に息づいているのだ、といおうか。
(詩人)







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