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評者◆吉田文憲
「私」を超えて生きるもの――霊気のような未知の力にふれようとしている「見おぼえのない女」(谷崎由依、『群像』)
No.3057 ・ 2012年04月07日




 箱の中には、猫がいる。でも蓋が閉まっていれば、いるかどうかはわからない。いるかもしれないし、いないかもしれない。そこで男はそっと箱を開けてみた。すると中にはてんじくねずみのような小さな猫がいた。もう一度開けてみた。こんどはもう猫はどこにもいなかった。
 シュレディンガーの猫。これは不確定性理論を語るときの、有名なたとえ話である。これに似た話を物語の女が語る。それは同時に、この物語の「いるのにいない」不在の構造を語っているように思われた。
 谷崎由依「見おぼえのない女」(『群像』)は秀作である。一読、惹かれ、二読三読した。あの箱(物語)の中には、何がいたのか、誰がいたのか。この物語はいたるところにそういう問いを仕掛けておいて、その暗箱の迷宮の中に、読者を、サラリーマンである主人公の男を誘いこむ。
 男は上司が交替したために、窓際族に追いこまれてしまった。彼には妻と幼い娘がいる。その男の前に、突然会社の受付にいる梨元ゆかりという女性が現れる。その場面は、次のように描写されている。「……目の前をよぎる瞬間、もうひとり現れた。長い髪を波打たせ、前を歩く人の影から、踏み出すようにこちらへ逸れた」。女は重なり合う影の中から現れる。むしろこちらへ逸れてきたのだ。やがて女に引きこもりの兄がいるので会ってほしいと頼まれ、男は女の家へ行く。あばら屋のような家だ。二階にはたしかに兄のいる気配はするのに会えないまま、二人はそこで関係を持つ。冒頭のたとえ話は、女がそのとき語るものである。女はさらに、こうも語る。「見えないもの、知られないでいるものは、何もないのと同じことだ」、と。その話に刺激されて、男は、中学生の頃知ったという宇宙の「暗黒物質」について語る。この世界は、人間を離れた不確定な物質で満たされている。「人間がどんなふうにしていても、わからないものはわからないものとして、世界のあちこちを埋めている。それは安心することだ」、と。
 それは安心することだ――ここに、この物語の秘められた声があるのだろう。
 結局男は、何度行っても、女の兄に会うことができない。そして最後に女の家を訪ねたとき、そこは魂の抜けたあとのような空き家になっていた。あばら家、この箱の中にはてんじくねずみはいなかったのだ。だが本当にそうだろうか。男が家へ帰ると、妻が娘に絵本を読み聞かせている。「……妖精にいたずらをした青年は、もう二度と、王国へは入れませんでした」。
 物語の見事なオチである。では箱の中の梨元ゆかりは妖精だったのか。男の体験したことは絵本の中のお伽話だったのか。そうかもしれない。けれどここでいう妖精とは、目に見えないもの、あの世界を満たしている「暗黒物質」のようなものでもあるだろう。そしてまた「暗黒物質」とは、この世界を生成する力であり、生命体を生き続けさせ、それによって生かされてある「わからなさ」、未知の霊気のようなものだろう。それを書き手は不器用に「白いたましい」とか「白くてすばやく動くもの」とか呼んでいるが、それはともあれ「私」を超えて生きるものであり、この物語はその霊気のような未知の力にふれようとしている。
 稲葉真弓「ある晴れた日に」(『新潮』)も余韻の残る佳品だった。
 西国のある半島の別荘地を舞台に、ふと迷いこんだ崖下の道の彼方から聞こえてくるマリア・カラスの歌声に導かれたどりついた「荻さん」という「傾斜地に建つ家で一人暮らしをしている老嬢」との出会いを描く。これもまただまし絵の中の迷宮をさまようような迷い家の物語だ。荻さんはいつ行ってもカラスの歌を流している。「美声を持つ魔女の物語」と、晩年の、世間から姿を消しアパートメントに閉じこもった「声を失ったあとの孤独」な女の物語が、この見捨てられた別荘地の「荒れた緑の空洞」に住みついている老嬢の身の上に重ねられている。それを作者は「においながら傷ついていく果物」という、いたましくも美しい言葉で語っている。その荻さんは、あの大災害の四日後に亡くなった。
 その年の九月、主のいない家を訪ね、かつて迷いこんだ崖下の道の岩場に立ち尽くし、そこで「私」は、干潟の泥に「無数の白いもの」、クラゲの死骸が打ち上げられているのを見る。潮だまりの水と戯れるように浮いたり沈んだりしている「半透明の生き物」を眺めるこの物語のラストシーンはじつに印象的だ。
 黒川創の「橋」(『新潮』)にもふれておく。これは、大正時代の文学者厨川白村が関東大震災のとき鎌倉で罹災死した、その顛末を語りながら、同じ鎌倉に住み、そこで還暦を迎えた一人の物書きの、ことここに至るまでの来歴を語る。「橋」はその彼岸と此岸の時空に架かっているのだろう。読後こころに残ったのは、ひと山越えた横須賀の岸壁に繋留されている原子力空母に想いを馳せる場面だ。原発一基分くらいの原子炉を二基積んで走る空母。その空母が炉心溶融の事故を起こしたら……。ありえない空想ではない。
 ここではこの先を生きることの「わからなさ」の不安が全篇を覆っている。
(詩人)







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