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評者◆阿木津英
大震災・反原発の歌が短歌になるとき――「他人事の感覚」と人間としての共苦の声
No.3053 ・ 2012年03月10日




 長谷川櫂『震災歌集』を「こういうのが短歌だと言われることに対して歌人は何故怒らないのか」と、『短歌往来』一月号特集「大震災と詩歌を語る」の対談のなかで松本健一が憤慨している。歌に関わるひとりとして「まいった」と思った。しかし、読み進むにつれて、そう簡単な問題でないことも痛感された。
 松本健一の批判の根本は、短歌や俳句や詩をドキュメントの具にしていいのかというところにある。事実を次々に五七五七七化するドキュメンタリーを歌とは言わない。歌は、歌という長い歴史をもつ文脈に一度沈めてそれから出てくるものではないか、というのである。
 そのとおりだ。しかし、その松本健一や対談相手の松村正直が「今回の津波の情景に匹敵するような短歌表現」になっているとする、震災前に作られた歌〈もう畳み直せぬ海が散らかった意識のすみずみで波を打つ〉(石川美南)、〈ひゃらーんと青い車が降ってきて商店街につきささる朝〉(笹井宏之)を見るとき、これなら長谷川櫂はそれほどひどく言われる筋合いもなかろうと思われた。
 要するにこれらは事実に追いつかれた歌でしかない。二首ともに、ああ、あの映像にそっくり、そう思わせる映像喚起力のある巧みな歌だが、それ以上の何があるのか。
 あえて探れば、それは「他人事の感覚」である。他人事としか感じられない若干病んだ感覚と言ってもよい。これと、長谷川櫂のドキュメンタリーの背後にひそむ義憤という形の健全な「他人事の感覚」とは対をなすものではなかろうか。
 反原発の歌が、東電や政府に対するたんなる罵言で「短歌表現」になってないという批判も、そのとおりではある。しかし、良い歌として引用されるものを見ると、どれも映像喚起力に巧みな歌にとどまる。
 大震災の歌が歌として成り立つのは、人間としての共苦の声がそこに聞こえるときだけだろう。
 松本が二・二六事件に関わる長谷川櫂の歌と比較して迢空の歌〈たゝかひを 人は思へり。空荒れて 雪しとしとと 降り出でにけり〉をあげている。迢空の歌にあるのは、〈沈黙の量〉であり〈深く蔵する力〉である。映像喚起力ではない。海中に没する氷塊の大きさをうかがう、という感じ方を失いつつある歌壇の昨今である。
(歌人)







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