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評者◆別役実
山手線
No.3052 ・ 2012年03月03日




 正式には「ヤマノテセン」と謂うらしいのだが、我々は通常「ヤマテセン」と言っている。どうやら「ヤマノテセン」と正しく言うのは我々よりも年上の人で、それを聞くと、「下町」と「山の手」を分けて考えていた時代の、やや古風な地理感覚を呼び覚まされたような気がする。
 東京都心をまるく囲う環状線で、一周すると一時間ほどかかる。私の知っている舞台俳優で、「新しい台本をもらったら、あれに乗って一周する間に科白を覚える」という人がいた。一本の台本を読み切るには少し時間が足りないような気もするが、主役のような「出ずっぱり」の役でなければ、大丈夫なのかもしれない。
 そんなに人々のゴチャゴチャと出入りするところではなく、静かな公園のベンチに坐って読んだ方が、はるかに科白の覚えもよさそうに思えるが、必ずしもそうではない。
 動いているものの中にいた方が、科白と風景を同調させることが出来るからである。舞台上で科白を忘れた時、「あ、これはコマゴメを走ってた時に読んだところだ」と考えることにより、思い出すことがあるからである。これとは別の俳優の話だが、舞台上で下手の壁に掛かった時計を見て口に出す科白を、道具方がうっかり時計を掛け忘れたところ、絶句してしまったという例がある。
 ともかく山手線は、古くから都民にとってはなじみのある線であるから、そのように使う人もいるのである。私も、その話に刺激をされたせいでもないのだが、一度何の目的もないまま一周してみたいなと思っているものの、まだやったことがない。誰かに見つかったら「恥ずかしいな」と思うのである。もちろん、同じようなことをする人はめったにいないであろうから、見つかる怖れもなさそうなのだが……。
 一周すると駅は二十九あり、私はほぼソラで言えるが、先日新聞に、「田町と品川の間にもう一駅ふやす」という案が発表されて、いささか驚かされた。何でも、田町と品川の間が一番長いからだそうだが、「だからと言って今さらそんなことをしなくても」という気がしなくもない。もしかしたら、「山手線の駅名を全部ソラで言える」と自負している私のようなものに対する、挑戦のつもりかもしれない。
 ただし或る経済学者によると、そこに駅を増やすことによる経済効果は、かなりのもの(氏は数字で示していたが、テレビ番組の中なので、忘れてしまった)だと言う。もしそうだとすると、これに味をしめてJRは、他の駅と駅の間にも次々と駅を造り、ということになるのかもしれない。そう言えば、「西日暮里」という駅も、昔はなかったような気がするから、もしかしたらJRの「駅増やし計画」は、この時からはじまっているのかもしれない。
 何はともあれ、東京都における山手線は、ちょっとした傑作と言っていいだろう。ともかく「東京」を説明する場合、ひとまず紙に円を描いて、「これを山手線とするとだね」と、そこから始められる。主な「盛り場」はたいていその線上にあるから、外側からそのそれぞれに私鉄の線をつなげ、またそこから山手線の円内に地下鉄をつなげると、ほぼ「東京」が出来上がるというわけである。
 ただ惜しむらくは、山手線の円内と円外に、さほどの格差がない、ということである。もちろん、多少はある。何よりも円内には皇居があるし、学校や文化施設も多い。しかし一般の居住区もあるし、「これはどこかハズレに置いた方がいいんじゃないか」と思われるような「盛り場」も、いくつかある。実は私も、二度ほど(六本木と広尾に)居住したことがあるのであるが、その時には何とも思わず、引越してから「ああ、あの時は山手線の円内にいたんだ」と考えただけなのだ。
 円内に入る度に「恐れおおい」とまではいかなくとも、多少「別の場所に入りこんだ」くらいのメリハリがついたら、この「東京」も、もう少しわかりやすいところになるのではないか、と思うのである。城壁で取り囲まれた街の、城内と城外のように、線内と線外と言い分けられるようにするのである。
 たとえば或る場所の広さを表す場合、「東京二十三区を二つ合わせたくらい」と、「東京二十三区」を基準にすることが多いが、あれはよくない。そう言われて「ははあ、あのくらいね」と見当をつけられる人は、恐らくめったにいない。東京都の地図を見て、一目で囲い込める図形にはなっていないからである。
 今後は是非、「山手線が囲い込んだ土地を二つ合わせたくらい」と、こちらの基準を使っていただきたい。これなら多くの人が、「ははあ、あのくらいね」と、容易に見当をつけられるのである。
 ところで、JRに「駅増やし計画」なるものがあることは判明したが、もしかしたらこの他に、「急行運行計画」なるものも、秘かに進行しているのではないかと、私はにらんでいる。実は過日私は、池袋から渋谷へ帰るに当たって、埼京線なるものに乗ったことがあるのだが、これは池袋から、間を飛ばして新宿、渋谷と直行し、言うまでもなく山手線で行くよりも早い。
 生憎埼京線の停まる渋谷駅は、山手線の渋谷駅より、はるかに恵比寿寄りに遠く、改札口までかなり歩かなければならないが、そこで私は、「山手線に急行が出来たら」と考え、私が考えるくらいであるから当然、JRの専門家たちも考えているに違いないと思ったのだ。
 急行の停まる駅として考えられるのは、さしずめ「東京」「新橋」「品川」「渋谷」「新宿」「池袋」「上野」というところであろうか。「品川」と「渋谷」の間、それと「池袋」と「上野」の間が空きすぎていると思われるが、暫くこのままにしておいて、沿線の人々に不自由を感じさせておいてから、後に前者の場合は「五反田」、後者の場合は「田端」あたりを停車駅に格上げすれば、例の「経済効果」という奴が生ずることになるかもしれないではないか。
 実際の地図で見ると山手線は、必ずしも円形ではなく、品川と大崎の間で南方に突き出しており、北方は逆に大塚、巣鴨、駒込のあたりで凹んでいる。北方を王子あたりまで行って引き返してくれば、南方のトンガリと対応するのだが、かつてそう出来ない何か理由があったのかもしれない。
 もうひとつ、この山手線の環状の輪を、地上を走る電車としては唯一、中央・総武線が横切っているのであるが、よく見ると、この線の本来の目的は、東京と新宿を結ぶものであるとしか思えないにもかかわらず、実際には神田と代々木を結び、東京と神田の間、及び代々木と新宿の間を山手線に沿って無駄に走らせているのである。ちょっと見ると、横切るに当たって山手線に敬意を払っているように思えるが、これはどういうわけであろうか。
 山手線の、現在ある二十九の駅には、わざわざそうしたわけでもないのに、全部降りたことがある。ただし一回しか降りたことがない駅が、二つある。田端と大崎である。田端の方は、「降りた」と言えるかどうかわからない。駒込に「山」という喫茶店があって、ひところそこでよく仕事をしていたのであるが、そこへ行こうとしてうっかり乗りこしてしまい、やむなく降りたのである。改札口を出てみたものの、あたりに面白そうなものが何もないようなのですぐ引き返した。
 大崎の場合は、今でこそ大きなショッピング・モールのようなものが出来ていて、乗降客も多そうであるが、当時は西側に大きな工場があるだけの辺鄙な駅だった。私が出向いたのは、その工場群の背後に小さな劇場が出来、そこで友人が芝居をするということがあったからである。どうやら倉庫のようなところを改造した劇場だったと思うが、間もなくそこは取り払われたから、その駅に降りたのもそれっきりになってしまった。
 西日暮里などという、私などが行きそうもない駅にも何回か降りたことがあるのは、そこに仕事のしやすい喫茶店があるからである。私の山手線めぐりは、喫茶店探しのためと言ってもいい。従って、行きつけの喫茶店がなくなったり、「今日から禁煙になりました」ということになって、とたんに降りなくなった駅も多い。
 鶯谷もそのひとつである。芝居仲間の一人の葬式がこの近くの寺であって、その帰りに見つけた喫茶店であり、店の感じがよかったので何回か通ったのだが、或る日行ってみたら閉店になっていた、というわけである。
 ここへは、特に気に入っていたというわけでもなかったのだが、閉店後うっかりして一度行ってしまったことがある。「あ、そうだ。閉店だったんだ」と、店の前まで来て気付き引き返したのだが、そこから歩いて日暮里まで行き、その駅前で、良さそうな喫茶店を見つけた、ということもある。
 実は前述した西日暮里の喫茶店は、この日暮里の喫茶店で仕事をし、歩いて西日暮里の駅へ行く途中、見つけたものだ。
 私は、山手線の駅と駅の間を、よく歩く。どこかでひと仕事し、次の仕事にかかるまでの間をつぶすのに、いい散歩になることが多いからである。新宿から新大久保までもよく歩くし、巣鴨から大塚までもよく歩く。ただし大塚から巣鴨と逆に歩くのはいけない。坂が上りになるからである。
 テレビの散歩番組で、「駅と駅の間を歩いてみませんか」というのがあったが、山手線もそれぞれの駅に降りてみるだけでなく、駅と駅の間を歩いてみると、よくわかる。
(劇作家)







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