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評者◆小野沢稔彦
〈死〉へと向かう「七日間」の物語――タル・ベーラ監督『ニーチェの馬』
No.3049 ・ 2012年02月11日




われに親しきは眠り/
石にてはさらなり
悪事と恥辱の続く限り/
見ざる 聞かざることわが幸いなり/
われを覚すなかれ/
ああ 低い声で語れ

ミケランジェロ
「ソネット」より

 馬までも、あるいは馬だからこそと言うべきか、馬はある時――この終末の時――昨日まで行ってきた労務を拒否し、更には喰らうこと――生を維持する基本行動――を拒否し、ついには水を飲むことさえ拒絶して〈死〉へ向かって――無あるいは混沌へ――、生の行動を放棄する。すると、この馬に倣って人間もまた――この地上に存在する最後の、あるいは始源の男と女(アダムとイヴ)も――、ただひたすらに〈死〉、あるいは無、暗黒、混沌へ向かってゆっくりと生の動きを止めていく――例えば、生を維持するために喰らうことを停止する。物語の始まりでは、巨大なジャガイモにかぶりついていた父と娘は、やがてその行動を自らで拒否する。初源の光景を想わせる荒涼としたモノトーンの世界の中に〈死〉へと向かう「七日間」。それがタル・ベーラが創出した『ニーチェの馬』の、世界の物語である。
 ここでは、時間は日常的、物理的に進行するのではなく、実に緩慢に回帰的に始源へと向けて逆転した動きをとる――全ては〈死〉に向かって進行する。これがタル・ベーラが自らの最後の映画と言う『ニーチェの馬』の光景であり、全ての生きとし生けるものを形成する〈時間〉の物語なのである。この映画は時間についての考察でもある。そしてこの初源の、あるいは終末の光景こそ〈神〉が――神は死んだ、と言ったのはニーチェである――無から全てを創り出す過程を、映画によって反転し、この地の全存在=有から、無へと向かって逆遡行する光景の酷烈な(ただその変容はあくまで緩慢に変化しており、そのことさえ気づかぬように)無限運動を映し出すのである。
 神は七日間にわたる全ての生の創造の最後に〈男〉と〈女〉を創り出した。この時、神は女の創造に際し、男の肋骨から女を創り出すのであり、女はその起源から男を、同時に父親として予定的に創られてある。この映画の父と娘もまた、神の意志の現象のままに、実は男と女でもあるだろう。二人は源初のイメージを秘める形容しようのない荒涼とした風景の中に(モノトーンのスゴさ)、ただ二人生かされてある者として、人間の原罪として神に課された、働くこと、喰らうこと、そしてまぐわうことなどを行っているのだが、そうした生の行動から、それらを徐々に拒否し、そして解放されながら死=無へ向かって緩慢に歩むのだ。映画は、二人をあえて親娘として設定しているが(娘であるボーク・エリカの圧倒的スゴさ)、ここには紛れもなく男と女の〈性〉の業苦(生殖のための性の交わり)が刻印されてある――何度も執拗に映し出される、起床に伴う着付け=性の儀式の淫らさが告示するアレゴリー。そして映画の六日目。人が神に課された全ての労苦から、自らを解放した男と女は死を完成するだろう。映画は七日目を描かないまま暗黒の裡に終了する。七日目=混沌こそは、何も、誰も認識=表象することのできない光景であり、表象の不可能性の極北にあるのだから。無とは全ての生物も存在性も消滅していなければならない。空虚。
 ところで第三日目だったか、四日目だったかになって、この物語の中で唯一新しい生への転生が試みられる。男は突然に一切の家財道具をまとめることを女に求める。二人は家=固定された生を棄てるべくどこかへと出発する――この時、馬はもう労務を拒否しているのだから、二人は荷車に荷を積み、自力での脱出を図る。しかし、その行為がまったくの虚妄であり、不可能であることを知った二人は決然と死=虚無への道へ戻ってくる。井戸は枯れ、確かに「ここ」は不毛である。この時、「そこ」もまた不毛でないわけがない。以後、例えばそれまで茹でていたジャガイモの〈調理〉さえ行うことなく、ただ生のジャガイモに喰らいつくようになる――その音の不気味さ。やがて二人は、突然に生のジャガイモを喰らうことを止める。このように、繰り返されるくらしの細部がその反復の中で少しずつ変容し、まったく別な生=死を形成していく。そして六日目の終わりと共に二人は暗闇の中へと消え入ってしまうのである。そして映画もまた暗黒へと帰る。
 さて『ニーチェの馬』の三時間近い光景なのだが、ここで展開される〈死〉そのものを表象する光景――実に映画でしか描出しようのないモノトーンの荒涼とした光景――こそは、私たちが〈フクシマ〉以後の時間の中に見続けている光景なのであり、タル・ベーラが男と女と馬との風景の裡に表象し、悪事と恥辱の続く世界の中で、その世界そのもののあり様として視つめ続けてきたアレゴリーなのである。タル・ベーラは、小屋の前に一本の木――生動するもの全ての象徴としての――を、生の消滅を見届けるものとして屹立させるのだが、私にはこれが「陸前高田の松」とダブって映るのだった――しかし七日目に木はあるのか。緩慢な滅亡への時間を退行するこの物語――ニーチェは近代の開花期に、その内部に近代そのものの死を視た。そしてタル・ベーラは今、私たちが生きる自然史の終末の光景を描き出す。私たちは何を行うことができるのか。あるいは不可能なのか。
 この映画は、紛れもなく映画によってタル・ベーラの哲学世界を表象する。だから何よりも「馬」だ。長いファーストシーンを構成する、廃馬に近い巨大な農耕馬――馬こそ、近代の黎明期を牽引した「道具」である――の長い移動ショットとその光景こそが、ニーチェの近代への呪詛を集約的に告知しているだろう。ここでは馬は人間に先行して死を急ぐ。
 生も死とのあわいを告げるモノトーンの闇。徹底的に排除された台辞――モノだけが露出する。晴れることのない雨。全てをあいまいにする霧。そして微妙な音(ただ私には過剰な音楽のみは演出の失敗かと思われる)。風吹きすさぶ原初の光景の中に男と女と馬との生=死の反自然史を語る、この『ニーチェの馬』こそ、タル・ベーラがたどりついた終末の物語であり、〈フクシマ〉以降の、死を内在させた世界を生きることを強要された、私たちの〈黙示録〉ではなかろうか。
(2011年11月6日記)
(プロデューサー)
※『ニーチェの馬』は、2月11日(土・祝)よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー、以下全国順次公開。







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