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評者◆添田馨
「ひとりの死」と「百万人の死」と――吉本隆明の反・「反原発」論(『週刊新潮』2012年1月5・12日号)をめぐって
No.3049 ・ 2012年02月11日
吉本隆明が「反原発」に異を唱えていることについて考えた。その理由は、吉本氏がこの問題を、一貫した論理構造のもとに、本質論として述べているからで、心情的な反原発派としてはその根拠がどこにあるのかをどうしても見たかったからだ。
例えば「週刊新潮」(2012年1月5・12日号)のインタビュー記事では「(福島第一原発の事故をきっかけに)“原発はもう廃止したほうがいい”という声が高まっているのですが、それはあまりに乱暴な素人の論理です」と言っている。続けて「ある技術があって、そのために損害が出たからといって廃止するのは、人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するもの」だと述べている。そして、吉本氏の主張のここが要の部分でもある。だが、このもっともな見解と先の「反原発」批判とが、私の中でどうしてもすんなりと結びついていかない。何故なのだろうか? 「自動車だって事故で亡くなる人が大勢いますが、だからといって車を無くしてしまえという話にはならない」というたとえ話をもって、吉本氏は今回の原発事故が「反原発」の根拠には到底なり得ないというのだが、実は私はここで、ある歴史上の人物が語ったという言葉――「ひとりの死は悲劇だが、百万人の死は統計だ」を思い出していた。 交通事故をここで言う「ひとりの死」だとするなら、確かにそれは悲劇以外の何物でもない。「人間は新技術を開発する過程で危険極まりないものを作ってしまうという大矛盾を抱えている」のだという吉本氏の考えと、ここまでは全然矛盾しない。だが原発事故と交通事故はその本質において等号では結べないのではないだろうか。 私たちが直感的に捉えている感じ方では、原発事故はむしろ「百万人の死」の側であって、それは人間個々に訪れる「悲劇」ではすでになく普遍災害とも呼ぶべき現実なのだと思う。「悲劇」がどのレベルから「統計」に移行するのか定かではないが、思考の原点にあるべきなのはあくまで「ひとりの死」であり、統計的な数字上の死者では絶対にない以上、むしろ「ひとりの死」と「百万人の死」を等号で結んでしまう構造が、原発事故というものの本質だと思うのである。 (詩人・批評家) |
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