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評者◆別役実
井の頭線
No.3046 ・ 2012年01月21日




 「井の頭線」というのは、渋谷と吉祥寺をつなぐ、短い路線である。吉祥寺に井の頭公園があり、都心からそこへ行く電車として、その名がついたのかもしれない。現在でこそ電車は住宅街を走り抜けているが、かつては沿線にかなりの田や畑が残っていたのであり、ちょっとした郊外電車の趣きがあった。
 「扉を手で開けてたんだよ」と、私がこの電車の話をすると、何度かその点を強調する者に出会った。かつてはどの電車だって自動扉ではなかったのだから、それほど「オドロクべきこと」とも思えないのだが、恐らく「井の頭線」は、そうなるのが一番遅かったのだろう。
 何となく「一時代前の電車」というニュアンスは、車両その他が多くの他の電車と遜色なく新しくなっているにもかかわらず、今でもそこはかとなく感じられる。もしかしたら、駅と駅との間隔が異常に短い、というのもそのひとつかもしれない。
 「ホームの先端に立つと、隣の駅のホームの末端に立っている奴と話が出来る」とか、「ホームに傘を忘れた場合、次の駅で降りて叫べば、投げてくれる」とか、この種のジョークはいくつもある。事実、隣の駅のホームが見通せるところがいくつもあり、そこに電車が入り、客を乗せ、おもむろに走り出す様を、つぶさに観察出来るのである。
 ただし、この点はこの路線の欠点ではなく、「だから井の頭線はいい」と、むしろ好感を持たれることの方が多い。いわゆる「井の頭線ファン」である。「東京を走るどの電車が好きですか」というアンケートを取ったら、「井の頭線」はかなり上位に入るに違いない。
 ところで私は現在、杉並区の永福町に住んでおり、もよりの駅は「井の頭線」の「西永福」ということになるのであるが、この手の住民にとって「井の頭線」は、ちょっと違った意味を持つ。
 東京都の地図を広げてみればおわかりの通り、杉並区のこのあたりは、新宿から吉祥寺に走るJRの中央・総武線と、渋谷から吉祥寺に走る「井の頭線」が、それぞれ並行に走っていて、それぞれ別の文化圏を形造っている。従って「杉並区に住んでいるよ」と言うと、「どっちの」と聞かれる。つまり、中央・総武線か、それとも井の頭線沿線か、というわけだ。そして「井の頭線の方」と答えると、「ああ、あっちね」と言われる。
 この「ああ、あっちね」という言い方には気をつけた方がいい。どうやらそこには、かすかなあなどりのようなものが含まれている場合が多いからである。井の頭線沿線の住民自体は必ずしもそう思っていないが、一般的には、中央・総武線と井の頭線を比較した場合、前者がメインで、後者はその補助線のように思われている。大動脈と、その迂回路のようなものだ。
 もちろん、「井の頭線ファン」にとっては、そんなことはどうでもいい。いやむしろ、だからこそ「井の頭線」の方がいいと言うかもしれない。しかし、住民の方は「あっちがメインで、こっちはつけたし」という感じに、いささかプレッシャーを覚えずにはいられないのである。
 何故なら、区役所も税務署も「あっち」側、つまり中央・総武線沿線の方にあり、しかも、「こっち」から「そっち」へ行くには、わざわざ新宿か吉祥寺へ出て、まわりこまなくては辿りつけない。もっとも最近、「それでは井の頭線沿線の住民が気の毒だ」ということで、井の頭線の「浜田山」という駅から、中央・総武線の「阿佐ヶ谷」まで、南北を直接つなぐ「スギマルクン」という小型バスが運行をはじめたが、井の頭線沿線の住民としては、それに乗ること自体が屈辱に感じられてならない。
 私も、区役所や税務署へ行かなければならなくなる度にそれに乗るが、その「スギマルクン」という、近ごろ各地で流行っている、いわゆる「ユル・キャラ」のようなネーミングにうんざりして、乗るところと降りるところを、人に見られたくないような気分になる。「ここはディズニー・ランドではなく、大人の仕事の現場なんだぞ」と、くり返し自分に言いきかせなくてはいけないように思われるのである。
 このところ「高円寺」に、日本劇作家協会がその経営に参画する「座・高円寺」という劇場が出来、そこへ足を運ぶことも多くなったのであるが、その場合私は「スギマルクン」を利用せず、新宿まわりか、吉祥寺まわりで行くことにしている。明らかに「回り道」であるが、「スギマルクン」は「阿佐ヶ谷」どまりであり、そこからもうひと駅「高円寺」まで電車に乗るのが面倒でもあるし、劇場のメンバーに「スギマルクンで来たよ」などと言いたくない、ということでもある。
 ということを除けば、「井の頭線沿線住民」であることについて、ことさら不満はない。何故か演劇人が多く住んでいるらしく、電車の中で会うことも多い。「おや、君もかい」ということになるのだ。もしかしたら、中央・総武線をメインとし、その「ハズレ」という感じが、現今の演劇人の置かれている立場と、よく合っているのかもしれない。
 「井の頭線」には、急行と各駅停車がある。短い路線であるから、ことさら急行なんてなくてもいいのじゃないかと思っていたのだが、例の「東日本大震災」の後、節電のため一時急行がなくなり、間もなく復活するということがあり、「なくなってみると、あった方がよかった」ということを悟らされた。「渋谷」から「吉祥寺」へ直接行く場合、もしくはその逆の場合でも、圧倒的に時間が節約出来るのである。
 ただし、私の家のもより駅、「西永福」には急行は停らないから、「渋谷」で乗る時も、「吉祥寺」で乗る時も、たいていは各駅停車に乗る。時に急いでいたり、あとさきを考えずに乗ってしまったりする場合、急行に乗ってしまう場合もないではないが、「渋谷」からの場合は「永福町」で、「吉祥寺」からの場合は「久我山」で、各駅停車に乗り換えることになる。
 ただ、こういうことをくり返していると、「永福町で乗り換えだぞ」、もしくは「久我山で乗り換えだぞ」と、暗に言い聞かせていて、各駅停車に乗っているにもかかわらず、「永福町」で、もしくは「久我山」で、やってきた急行の方に乗り換えてしまい、「西永福」を通り過ぎて「久我山」まで、もしくは「永福町」まで連れて行かれてしまったことが、何度かある。
 急行の停まる駅は、「渋谷」「下北沢」「明大前」「永福町」「久我山」「吉祥寺」と六カ所である。「下北沢」は小田急線と連絡し、「明大前」は京王線と連絡しているから、乗降客は多い。「渋谷」から乗る場合、混んでいて坐れなくても、「下北沢」か「明大前」まで我慢をしていれば、坐れる可能性が高い。特に、統計を取ってみたわけではないから断言は出来ないものの、「下北沢」より「明大前」で降りる客の方が多く、後部車両に乗っていれば、たいていはそこで坐れる。
 街としては「下北沢」の方が大きく、連絡する線としても、小田急と京王ではさして差があるとは思えないものの、降りる客が「明大前」の方が多いのは何故か。これは、ちょっとした謎に違いない。
 そのほか、急行の停まる駅としては、「渋谷」と「吉祥寺」を別として、「永福町」と「久我山」の二つであるが、この二つには、他の線と連絡しているということもなければ、街としてそれほど大きいというわけでもないから、どうして停まるのかはよくわからない。もしかしたら、「ほどよい間隔でいくつか」という考え方で選ばれたのかもしれない。
 急行の停まる駅の住民と、停まらない駅の住民との間にも、かすかな差別感がある。もっともたいしたものではない。私の知っている芝居仲間の一人が、やはり井の頭線沿線に住んでいて、私は住所から、もよりの駅はてっきり「久我山」と思いこんでいたところ、「いや、富士見町だよ」と訂正され、続けて「急行の停まらない駅さ」と、やや残念そうに言ったのである。
 私がもよりの駅としている「西永福」も、急行の停まらない駅であり、とっさに彼の「残念さ」が理解出来てしまったから、「ああ、私もそのことを残念に思ってたんだ」と、あらためて気付かされた、というわけである。
 「井の頭線」は地上を走る区間が多く、従って踏み切りも多い。かつては「西永福」の駅も南口しかなく、私のような駅の北側に住んでいる住民は、南口を出て踏み切りを渡らなければならず、またそれがなかなか開かないとあって、大いに不便を感じていた。いつか高架になって、そこをくぐり抜けて行けるようになることを期待していたのだが、何と、現在は改札口を高架にして、電車はそのまま、客の方が南口へも北口へも出られるようにしてしまった。電車を持ち上げるより、客の方を持ち上げた方が、安上がりだったのかもしれない。
 そうなってみてあらためて考えてみると、風景としては電車は、高架を走っているよりは地上を走っている方がいい。「地震なんかがあった時に安心」ということもあるが、頭の上を電車に走られるというのが、何となくうっとうしいという感じがする。
 というわけで私は、「井の頭線ファン」とまではいかないものの、「井の頭線」はかなり気に入っている。ただこれがゆくゆく、「吉祥寺」で中央・総武線に乗り入れ、「渋谷」で、地下鉄・銀座線に乗り入れ、そのそれぞれに吸収されてしまうことを恐れる。そうなったら、「井の頭線」としての独立した良さは、失われてしまうに違いない。
(劇作家)







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