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評者◆別役実
地下鉄・銀座線
No.3043 ・ 2011年12月24日




 渋谷から、銀座を通って浅草に到る、東京で一番古い地下鉄である。私は、中学生時代を長野で過ごしたのだが、その修学旅行で東京に来て、初めて乗ったのがこの地下鉄だった。もっとも当時、他に地下鉄はなかったと思う。
 長野を出て、ひとまずは鎌倉を見物してそこで一泊し、次の日に東京に引き返し、渋谷から地下鉄に乗って上野の動物園へ行く、というプランだったから、地下鉄・銀座線体験はおまけみたいなものだったかもしれないものの、私自身は、むしろそのことにワクワクしていた。
 地下鉄というものが、「都会」を「都会」たらしめつつあるシンボルのように思えたのである。そしてその通り、体験は刺激的であった。当時既に古びていて、いわゆる「ガタのきた」感じの車両であったが、それがまた「都会」の、廃墟へ向う過程を予感させて、「なるほど」と思わせた。
 いつごろからそうでなくなったのか知らないが、その当時は電車が駅へ着く直前に、一瞬車内灯が消え、扉付近の小さな灯だけになるのであり、何故か私はそれを知っていて、級友に得意になって教えた覚えがある。「そろそろ次の駅に着くぞ」という合図だったのだと思うが、教えられた級友としては、「それがどうした」という感じであったろう。
 以来私は、すっかり地下鉄ファンになって、上京してからも特に用のないまま、よく地下鉄に乗った。車内で目をつむって、車両が今地上のどのあたりを走っているのか、想定された地図を追うだけで充分楽しかったのである。思いついたところで降り、地上へ駆けあがって、地図と見合う風景に出合うのもひとしおと言えた。この時、ホームから地上へ出る階段の折れ曲がり具合で、地上に出たとたん、一瞬方向を失うことがある。「えっ? 私はどっちから来て、今どっちを向いて立っているのだ」というわけである。
 ここから、頭の中で思い描いていた地図と、今立っている現実の場所が、ゆっくりと折合いをつけてゆく過程も、何とも言えない。言い方は大げさながら、「地下鉄を使いこなしたぞ」という気がするのだ。
 地下鉄・銀座線は三つに分類出来る、という話をご存知であろうか。私も、誰に聞いたのかは忘れてしまったが、いつか聞いて、「なるほど」と思った。つまり、渋谷から新橋までと、新橋から上野までと、上野から浅草までの三つである。
 「よく出来ている」と、誰しもが考えるであろう。渋谷から新橋までがほぼ山の手で、新橋から上野までが都心で、上野から浅草までが下町であるということもさることながら、何回か乗ってみるとわかるが、乗客の人種も、その三ケ所に従って微妙に変わるのである。ベテランの「地下鉄乗り」だとしたら、車内の乗客を見まわしてみるだけで、その車両が「三区分」のどのあたりを走っているか、見当をつけられるのではないか、と思われるほどである。
 ただこの「三区分」にちょっといちゃもんをつければ、新橋から上野の都心部がやや長過ぎ、更にそのニュアンスも、新橋から三越前まではいいとして、そこから上野までは、ちょっと違う気がする。それなら、新橋から三越前、三越前から浅草までとすればいいじゃないかと言われそうだが、これも乗ってみないとわからないものの、上野を過ぎてガラリと変わる、あのメリハリは捨て難いのである。
 三越前から上野までを、「どっちつかずの区分」として、このまま放っておくのが、今のところ無難であるように思う。
 ところで、私はかつて『地下鉄』という短編小説を書いて、大和書房の「夢の王国」というシリーズで発刊したことがある。
 「私はいつ、どんな時に地下鉄に乗っても《場はずれもの》というそしりを受けない。誰もが《そうだ》と思い、《その通りだ》と確信し、万が一にも《もしかしたら?》などという疑念をさしはさまない。それほどに、私は地下鉄に《溶け込んで》いる。ほとんど私自身が、地下鉄そのものではないかと、時々考えるくらいである。」と始まるこのモノガタリは、このような「地下鉄乗り」である「私」が、首都の迷路としての地下鉄をさまよい歩き、その中で出会った、更なるベテランの「地下鉄乗り」である「ヨシダ老人」と、「地下鉄の完成」について、見極めようというものである。
 そして、この「地下鉄の完成」とは、作品の中で一号線から六号線まである六本の地下鉄が、一号線の終着駅が二号線の始発駅につながり、二号線の終着駅が三号線の始発駅につながり、同様にしてすべてつながって複雑にからみ合った環を成す、と言うものであり、最後は、そのからみ合った闇の中に、二人とものみ込まれて消えてしまうという、かなり得体の知れない結末となる。
 私は地下鉄について、まだ銀座線と丸ノ内線しかなかった段階から、やがてそうなるだろうという予感を抱いていた。しかし、現実には、その後地下鉄はいくつか出来て東京の地下をにぎわせることになったものの、その始発駅と終着駅は、おおむね郊外から走ってくる私鉄と連絡し、複雑にからみ合った環となるべきものを、解きほぐしてしまっている。幸い銀座線は、郊外からやってくるどの私鉄とも結びついていないから、地下鉄であることの古風を守っているが、それもいつまで続くかわからない。その始発駅の渋谷と、終着駅の浅草が、他の地下鉄と結びつくよりは、渋谷が井の頭線と、浅草が東武伊勢崎線と結びつき、その郊外のニュアンスを持ち込んでくる可能性の方が、大きいような気がする。
 ひところまで、地下鉄には冷房がなくて、暑い夏の盛りには、窓を開けて走っていた。そして、駅毎に独特の匂いがあり、その匂いによって我々は、車両がどのあたりを走っているのか、見当をつけることが出来た。もちろん、どこにどんな匂いがしたか、言葉で説明することは出来ない。今、思い返してみて、唯一はっきりしているのは、神田ではドライカレーの匂いがした、ということくらいである。
 駅の近くにカレー屋があったのかもしれないが、このことだけは妙に覚えていて、私は今でも、ドライカレーの匂いを嗅ぐと、あの神田駅の、JRのガード脇に出てくる街並を思い出す。ともかく地下鉄は、視覚がさえぎられるせいだろう、嗅覚の世界である。毎日地下鉄に乗っているものは、嗅覚がするどくなってくるに違いない。
 今日、世には視覚文化のみが氾濫し、氾濫している分だけ、我々の視覚が鈍麻していると思われるのだが、地下鉄に乗ることで、その修正をすることが出来るかもしれないと、私は考えている。もちろんその場合、地下鉄の車内広告を全て取り除き、本や雑誌が読めないほど、車内灯を落す必要があるかもしれないが……。
 地下鉄の駅には、特にいくつかの路線が交差している所の場合、どう歩いていいのか分らないことがままある。いわゆる「ややこしい駅」である。銀座線で言えば、渋谷駅、銀座駅、最近になっての表参道駅だろうか。ここへきて私は足腰が弱くなり、なるべくなら階段ではなく、エスカレーターやエレベーターを利用したいと考えているので、なおさらである。
 最近私は新宿で人に会ったり、仕事をしたりした場合、新宿三丁目から副都心線に乗って渋谷に帰ってくることが多くなったのであるが、何回か試行錯誤をくり返したあげく、ここへきてやっと、副都心線の渋谷駅から、井の頭線の渋谷駅まで、上りは全部エスカレーターを使い、しかも屋外に出ることなく辿りつける回路を見つけ出した。
 途中、半蔵門線のホームを通り抜けたり、東急デパートの地下名店街を通り抜けたりしなくてはならないから、かなり難しいが、成功するとちょっとした快感を感じとることが出来る。
 銀座駅や表参道駅は、それに比較すれば大したことはない。大阪の梅田のように、地下街があって、その迷路のような広がりの中に地下鉄の駅が散らばっていると、これはどうしようもないが、東京の銀座線の場合、地下街と結びついている駅は、まだないからである。
 ところで大阪の梅田の地下街の場合、私はやむなく、交差点毎にある標識を見て歩くのであるが、「地下鉄乗り」という、私の前述した作中人物の考え方に従えば、これは「恥かしいこと」にほかならない。
 つまり本当の「地下鉄乗り」なら、どんなに地下深くもぐっても、枝道を折れ曲っても、自分自身の持つ方向感覚を狂わせてはならないのであり、従って、標識など見てはいけないのである。事実私はまだ銀座線に慣れていないころ、敢て銀座駅で降り、「渋谷はこっち、浅草はあっち」という方向感覚だけを頼りに、服部時計店の前に出るべく、見当をつけた階段を駆け上る試みをしてみたりしたのだ。
 というわけで地下鉄・銀座線は、東京へ出てきた私にとっての、最初の「都会の手ざわり」と言っていいだろう。それに「乗り慣れる」ことが、「東京に住みつく」ことであると、信じていたに違いない。そして有難いことに、地下鉄・銀座線だけは、未だにそのかつてのおもかげを、そこここに色濃く、残しているのである。
(劇作家)







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