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評者◆矢部史郎+『来たるべき蜂起』翻訳委員会
この世界から国家のみならず社会そのものをとりはらうこと――「大人たちは信じがたい出来事を理解できない」のだ
No.3038 ・ 2011年11月19日




 三月一一日以降、われわれが経験しているのは、家事労働の爆発的増大である。男であれ女であれ、日々の生活のなかで東京電力の不始末の尻拭いをさせられる。貧弱な線量計で自宅や公園を計測し、食品の産地を調べる。学齢期の子どもがいれば、プールや給食や運動会による被曝に気をもみ、学校との交渉に時間をついやす。〈主婦〉のシャドーワークがどれほどの不払い労働をしいるものであるか、その強度を思い知ることになった。
 この「健康管理」の苦役の増大(顕在化)という事態をまえにして、今日の地主・金融資本が繰り返し訴えているのは、「郷土愛」という、誰もが忘れていたはずのカビの生えた「愛」である。だがじっさいには、この列島に郷土などというものは存在しない。それはずっと以前になくなっていて、被曝した関東・東北地域はその最たるものだろう。
 日本ブルジョアジーはついに改心したのか? 違う。「郷土」を根こぎにしてきた彼らが現在あてにしているのは、どんなときにも不始末の帳尻をあわせるために、もっとも面倒な仕事を押しつけることのできる〈主婦〉階級の存在である。この〈主婦〉たちは、いくら被曝してもけなげに「郷土愛」に奉仕する。だが、人間の尊厳を奪うこの「愛の労働」は、忌まわしい児童虐待を生むだろう。疲れやすく病気がちになり、勉強に集中できず学力が落ちていく子どもたちは、家庭の密室と学校(化した)社会のなかで虐待にさいなまれることになるはずである。
 この重苦しい状況のなかで、そうした子どもたちの未来が還流したかのように、一〇月一五日のローマでは暴動が起きた。一連の「ウォール街占拠」において、ローマはロンドンを忘れなかったというべきだろう。だが、ナオミ・クラインやスラヴォイ・ジジェクが言祝ぐのは、ニューヨークの「リバティ公園」につどうひとびとの非暴力性である。前者は隣人との共時的な関係において、後者は通時的な見通しにおいて(クライン「今世界で最も重要なこと」、ジジェク「民主主義と資本主義の結婚は終わった」、ユーチューブ)。高祖岩三郎も示唆するように、こうしてアラブ革命後の叛乱が九〇年代以来の反グローバリズム運動と接合される一方で、その持続のなかの暴動の発現は閑却される(「共通財の奪還と新しい世界形成」朝日新聞、一〇月三一日付)。ロンドンやローマは、かつてのジェノヴァやストラスブールと同様に、忌まわしい例外にすぎないのだろうか?
 たしかなのは、「占拠」であれ暴動であれ、それらが今日の資本主義の様態そのものを標的としていることだろう。マウリツィオ・ラッツァラートによれば、それは「借金づけの人間の製造」による支配である(La Fabrique de l’Homme endette、Editions Amsterdam、2011)。この体制のもとでは、責任ある人間とは、借金をすることができる人間にほかならない。われわれは金銭の負債をつうじて、社会的かつ道徳的な主体となる。個人の債務だけではない。企業や自治体、あるいは政府そのものが借金づけになっている以上、たとえ個人に債務がなくても、現実には借金を返すためにのみ労働し税金をはらう。
 ギリシアでの暴動は、こうした「負債の経済」による統合への反撃であり、ローマにせよニューヨークにせよ、漠然と「格差」の解消なるものをめざしているのではない。あらわになっているのは、金融資本による借金をつうじた馴致からの離脱の意志である。それはかつて反グローバリズム運動がしりぞけようとした体制でもあるのだろうが、今日のわれわれも、金融資本への巨額の債務ゆえに東電がつぶれないことに想到すべきだろう。雇用の獲得は借金づけの人間となることと同義であり(車、教育、住宅……)、所得税のほぼ全額が公債の利息の支払いにあてられ、そして「犯罪企業」テプコ(ドイツZDF)の借金返済能力を維持するために、日々無償の「愛の労働」がいとなまれつづける。
 フクシマの特異性とは――チェルノブイリが冷戦体制に大きなクラックをはしらせたように――、それが借金による個人と共同性の組織という、われわれの生きる「負債の経済」の体制のただなかでおきたことである。すでにフクシマ以前に、この体制のもたらす収奪の惨状は、篠原雅武が語る空間そのものの「荒廃」という徴候にあきらかだった(『空間のために』以文社、二〇一一)。あるいは、それは先日封切られた『サウダーヂ』(二〇一一)の描く世界でもあるだろう。じっさい富田克也監督は、『国道20号線』(二〇〇六)にさかのぼる『サウダーヂ』の構想について、その発端が地方の国道をはさんで林立するパチンコ店と消費者金融を往来する男を目にしたことにあるという。
 もちろん、これは地方経済の低迷といったクリシェでは片づけられない。甲府という地方都市を舞台にしているにもかかわらず、『サウダーヂ』は世界そのものの全体を描き出している印象を観る者にあたえる。だからこそ、ロカルノ国際映画祭で上映されたさいには、リベラシオン紙が「『サウダーヂ』を忘れてはならない」(八月一六日付)と檄を飛ばしたのだろう。地方の国道を往復する男のすがたは、われわれ自身の生のいとなみのアレゴリーである。われわれは借金を返すために生きているのであり、そこで喧伝される「郷土愛」の不可能に呼応するのが「サウダーヂ(=郷愁)」という情動の滞留だろう。
 佐々木中がベンスラマやドゥルーズを参照しつつ、来たるべき「革命」の根底に「恥辱」という情動を見いだすと発言するときも、おそらく同じ荒廃に思いがこらされているはずである(『アナレクタ3』河出書房新社)。そしてそれは丹生谷貴志が鮮やかに抉出してみせる大岡昇平の『レイテ戦記』の核心にある問いでもあるだろう(『〈真理〉への勇気』青土社、二〇一一)。レイテ島の戦場という、もはや国家も社会も機能しない「敗走」のなかで、いわば世界の裸形が開示される。その「残酷」においては「神風特攻」ですら肯定されなければならないのだろう。いずれにせよ、そこには「郷土愛」など、はいりこむ余地はない。兵士たちは「人間的たる社会を粉砕するために、抑え難い激怒において飛翔した」のであり、「ありとあらゆる欺瞞に対する弾劾と告発と反撃」を「使命」とする「真理への勇気」となるという。
 端的にいおう。賭けられているのは、この世界から国家のみならず社会そのものをとりはらうことである。「占拠」が標的としているのは、『サウダーヂ』が描き出す「負債の経済」の荒廃である。この荒廃のなかで、国家や社会は死滅しつつあった。そこにフクシマの亀裂がはしる。事態はあきらかだろう。国家による救済を求めることもできなければ、ありうべき社会の「絆」を望むこともできない。反原発デモの頻発がそのことをなによりも示している。われわれは裸形のアルカイックな主体となり、国家にせよ社会にせよ、あらゆる他者=回装置はしりぞけられる(他者よ、かくあれかし!)。そしてそのかぎりにおいて、暴動は肯定されなければならない。だが、革命に暴力が不可避であるという意味ではない。暴動は必要悪として生じるのではない。それは国家や社会の捕獲に抗して、世界そのもののアルケーをあらわにする。そもそも社会という概念自体、フランス革命後の蜂起の連鎖を鎮圧する装置にすぎなかったことを想い起そう。ランシエールがこの装置の発明された時期を特権的に論じるのも偶然ではない(『無知な教師』梶田裕・堀容子訳、法政大学出版局、二〇一一)。そこでは教師は無力だろうし、われわれにとっての旧約である楳図かずおの『漂流教室』(小学館文庫)でも、まず自滅していったのは国家や社会をになうよき教師たちだった。「大人たちは信じがたい出来事を理解できない」のであり、われわれであるフクシマの子どもたちは、虐待と敗走の残酷のなかで、世界そのものが存在するという「真理への勇気」とよぶほかないものへと生成するのである。
(海賊研究+『来たるべき蜂起』翻訳委員会)







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