書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆稲賀繁美
2・1・0〉は東アジア社会の相互依存と相互不信とを読み解く普遍的鍵となるか(上)――小倉紀蔵著『創造する東アジア――文明・文化・ニヒリズム』(春秋社、本体四〇〇〇円)を読む
No.3033 ・ 2011年10月08日




 非常時には日常では考えられない千載一遇の可能性がぽっかりと口を開く。だが少しでものろのろしていると、その可能性はあっけなくその口を堅く閉ざす。ひとたび閉じられた口は、二度と開くことはない。日本の政治が今この時機をみすみす逃しつつあるのは、誰の目にも明らかだ。大きな傷口を横目で見捨て、人々は過去の惰性の日常へと足早に逃げ込もうとしている。我々に残された時間は多くはない。
 文明の転換点と見て誇張ではない今、その未来像を意識するのに恰好の省察が現れた。哲学者、小倉紀蔵の思索を凝縮した本書である。原論から各論までやや欲張りすぎた気配もあるが、文明、文化およびニヒリズムに関する独自の定義で500頁の著述を牽引する構想力は侮れない。その可能性と課題とを検討したい。
 本書の演繹的な展開を巻末から遡ってみよう。巻末で著者は尹東柱の絶唱「星を数える夜」を引きながら「たましひ」を語る。土橋寛によれば「ひ」は霊力、「たま」は漲り。「たましひ」は霊力の充実であり、それゆえ、世界に偏在するものであり、個々のヒトとはそうした「タマシヒの束」と定義される。生ける個体のうちにも死者の姿が集約されている。一般に「個人」と呼ばれる認識主体は、実際には他者と共有され、世界に散在する知覚像の暫定的統御態だが、我々はともすればそのことを忘却する。著者はこの立場を多元的主体主義multisubjectivismと命名し、個人を絶対視する西欧思想は「間違っているだけでなく危険」だと指弾する。個人主義の呪縛をいかに説得的に解きほぐすかに、著者の眼目のひとつがある。
 自ら「アニミズム的・反西洋的」であることを標榜して憚らない前提に立つ著者は、しかし安易な全体論とは一線を画す。小倉にとっての個人とは、内部に多重の闘争を閉じ込めつつ、その力の鬩ぎ合いのなかで辛うじて成立している運動である。おそらくはそこに金芝河の感化をも推定できるが、ヘーゲル的な二元論的弁証法や、マルティン・ブーバー的な絶対者との対話原理、あるいはシャノン流のencodeとdecodeによる入力・出力の情報理論に頼った記号学的世界観などは退けられる。ハイデガーはたしかに道具的存在に注目したが、その「誤り」は、西洋の伝統に囚われ、存在者の一個性に執着したことに求められる。ネグリ/ハートのmultitudeの考えも、主体の一個性を前提とした集合群という発想において「根源的に間違っている」。小倉は「アトム的自我」を否定し、「東洋的」な「気」との親近性を否定しない。だが自己と宇宙との一体化という方法は、世界の多重性を見落とす。だから「万物一体の仁」を説く程明道、陸象山、王陽明などは「方法論において間違っている」。さらに小倉の舌鋒は、近年の思想家にも向けられる。それぞれ多文化社会ないし世界市場経済において「潜在的能力」の可能性を主張するチャールズ・テイラーやアマルティア・センも、ともに個人能力の発現に基礎を求める点で、限界を露呈する。また国民・国家の枠組みを虚構とみるベネディクト・アンダーソンらの議論は、特定の文化や文明への帰属意識が発揮する現実的効能を否認している。その裏には、こうした論者個人の越境的「否認」の権力性と、その安全を保障する特定の文化や文明への帰属、「良心的な仮面をかぶった普遍主義的植民地主義」が、逆照射されることになる。
 小倉は、多重的な力の相克の具現を、李朝の白磁にみる。おそらく姜在彦の所説を下敷きに、小倉は柳宗悦が唱えた「悲哀の美」としての無垢の陶工による無名の美、という理解を退ける。とともに、白磁のうちに朝鮮の主体性の躍動を見る金達寿や金両基の民族主義的主張も短絡として退ける。小倉はその代りに、白磁の壷の形状に、角逐して拮抗する無数の主体の犇き合いを触知し、胎の質量のうちに、両班支配階級から虐げられた陶工たちの消極的な抵抗、「恨」の宿った様を透視する。しかし、これでは小倉自身の「知覚像」が白磁に投射された解釈に過ぎない、と批判する向きもあることだろう。
(以下次号)
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約