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評者◆秋竜山
当時の唐人、の巻
No.3029 ・ 2011年09月10日
出島といえば、長崎の埋立地にあった阿蘭陀(和蘭)商館のことで、今でも復元されたりして観光名所として有名である。長崎といえば、その「異国情緒」が、売り物でさえある。ところが、「唐人屋敷」というのがあったということは、あまり有名ではない。横山宏章『長崎唐人屋敷の謎』(集英社新書、本体七四〇円)では、この「唐人屋敷」が鎖国時代に存在した。中国ワールドの、「なぜ」を究明する。
〈絵画や回想録、そして「唐通事会所日録」「長崎実録大成」「長崎群談」などの役人記録、あるいは「崎陽犯科帳」などから垣間見られる唐人屋敷の実態に迫りたい。〉(はじめに) タイムトリップできるのも、〈写真などはない時代であるが、関心が高かっただけあって、幸いなことに、多くの絵師が描いた絵画や版画が残っている〉の、おかげである。「その時代に写真があれば」と、思っても仕方がないことで絵画にたよればよいのである。うらやましい!! と、思うのは、当時の絵画の力である。そして、そのような絵を描く絵師たちの仕事ぶりにもある。すぐ現在(今)とくらべてしまうけど、今の絵かきにそのような仕事があるかというと、皆無だろう。写真に写し出された、その風景に絵画は力を失ってしまうようである。写真の無かった時代の絵画とくらべ今の絵画は淋しい限りである(そんなことはない!! という声も力なく聞こえてくるようでもあるが……)。私は、どっちかというと写真より絵画のほうが好き。写真のそのものずばりよりも絵画のほうが、描かれているものが、写真のようにそのものずばりとはいかない。本当に、そーなのか、そーでないのか。かなりのウソであったりするかもしれない。専門家は、それを見抜く眼を持っているだろうが、素人は、信ずるしかないようでもある。 〈唐人屋敷(あるいは唐人屋舗)その期間は、創設された元禄二年(一六八九)から、「安政の開国」である安政元年(一八五四)までの一六五年間である。大火で唐人屋敷が物理的に消滅するのは明治に入った一八七〇年であるから、実質的には一八一年間ということになろうか。〉(本書より) まず、驚くのは一八一年間もそのような屋敷があったということだ。人の寿命からみれば、二人分の長さである。そして、もっとすごい(としか、いいようがない)のは、それも大火によってアッという間に消えてなくなってしまったということである。 〈極彩色にもペイントされた唐船を操って、東シナ海の荒波を越えてやってきた唐人たちは、長旅の疲れもとれる間もなく、わずか一万坪弱の狭い唐人屋敷に閉じ込められて、日本との貿易を担った。それでも、波濤を越えてやってきたのは、よほど利益が大きかったのであろう。〉(本書より) そーいえば、今、思い出したのだが、子供の頃、よくバアさんが、「この唐人が!!」と、口にした。わけのわからないことをいうものに対して、なげかける。明治生まれのバアさんだから、唐人というもののイメージから、一般語となっていたのだろう。今、そんなことを口にするものはいない。第一に「唐人ってなァに?」と、聞きかえされるだろうし、聞かれても答えられないだろう。時代だなア。 |
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