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評者◆森谷 博 (聞き手・鈴木義昭)
世界に向けて普遍的なメッセージを帯びる映画――先住民の都市化は海外とも共通の問題
No.3025 ・ 2011年08月06日
関東圏でアイヌの文化伝承や活動に携わる人々の記録である『TOKYOアイヌ』が完成し、上映活動が続けられている。監督の森谷博氏に話を聞いた。聞き手は、ルポライターの鈴木義昭氏にお願いした。(インタビュー日・6月9日、東京・神田神保町にて)
『TOKYOアイヌ』は、7月30日(土)14時/31日(日)14時・18時/8月13日(土)14時/14日(日)14時・18時に、マルチスペース「寿環」(JR中野駅北口より徒歩13分)にて上映。料金1500円。要予約=090‐6306‐0907(成川) 今後の上映日程などは以下。http://www.2kamuymintara.com/film/index.htm ○たった一人の実働部隊 ――映画『TOKYOアイヌ』が、昨年秋の公開から各方面で大きな反響を呼び続けています。森谷さんが、監督をされることになった経緯から、お話ししていただけますか。 森谷 二〇〇六年九月、浦川治造さんがやっている千葉県君津の「カムイミンタラ」へ、庭造り作業の手伝いで行ったんですね。宇梶静江さんも遊びに来ていて、その時に映画作りの話になったんですよ。かつて岩波映画のドキュメンタリーに御二人が協力したということがあって、自分たちで「アイヌの映画」を作りたいという考えがあった。ただ、僕はすぐに参加するわけではなく、今の製作委員会のメンバーがどんな映画を作ろうかと議論をしているミーティングに、〇七年の年明けに誘われて出た。治造さんがいて「始めなきゃ、何も始まらないぞ!」って、言われた。それをきっかけに動き出したところもありました。 ――最初は『アイヌの治造』というタイトルの映画だったそうですね。 森谷 『アイヌの治造』という自費出版の本があったんです。亡くなった建築家で治造さんの友人だった原田詠志斗さんが書かれた本ですが、そこからタイトルを拝借して、とにかく治造さんを追いかけ始めた。僕は、治造さんについてもアイヌのこともよく知らないから、撮りながら考えながら進めていければという思いでした。 ――結果的には「十六人」の首都圏アイヌの人たち、今度一人抜けて「十五人」のアイヌの方々の証言集という形になっていくわけですが、それはどの辺から。 森谷 〇七年の三月から治造さんを撮り始めて、八月に芝公園で「東京イチャルパ」があった。明治初期に、北海道から東京に連れて来られたアイヌの人たちがいて、日本人化教育を受けて、亡くなった人もいる。現在の芝公園内にあった「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」へ、三十八人のアイヌが連行強制就学され、うち五人が亡くなっている。その辛く苦しい思いを受けて、〇三年から始まった、首都圏アイヌによる「先祖供養」の集まりです。「東京イチャルパ」に参加して、首都圏にアイヌの人たちが沢山いることに気がつきました。現在も五千人を超すアイヌがいるといわれていますが、治造さんだけでなく、首都圏全体のアイヌの映画にした方がいいのではないかと、その時に強く思い、製作委員会に僕から提案もしました。議論の末、基本的にそれで行こうということになっていくんです。 ――スタッフは? 森谷 実働部隊は、僕だけです。 ――たった一人ですか。 森谷 たった一人(笑)。だから、監督、撮影、編集、全部一人で。もちろん、さまざまに製作委員会がサポートしてくれましたが。当初は、「アイヌの若い人でやれる人はいないんですか」って聞いたんですよ。アイヌの人が自分たちのことを映像で表現した方が、外から来た人間が撮るよりも、世界に対するアピール度は高いだろうと思った。外部の第三者が入ってきて、さもわかったような作品を撮るのはよくないと思っていた。 ――映像を紡ぎだせる人は他にいなかった。 森谷 プロで映像をやっている人はいなくて。今では、ビデオカメラとパソコンがあれば、なんとかできるじゃないですか。でも、そういうことを主体的にやる人材がいなかった。 ――浦川治造さん、宇梶静江さんを撮り始めて、その次に「東京イチャルパ」の牽引役であり、「レラの会」所属の石原修さんを取材されたと聞いていますが。 森谷 高田馬場や中野にあったアイヌ民族料理店「レラ・チセ」を中心となって運営したり、「東京イチャルパ」を開催していたということなど、石原さんの存在は大きかった。首都圏には、アイヌの大きな団体が四団体あるんです。治造さんと宇梶さんは「東京アイヌ協会」、石原さんが「レラの会」で、他に「関東ウタリ会」「ペウレ・ウタリの会」があり、各団体を代表する方に、まずインタビューをしています。「ペウレ・ウタリの会」の青木悦子さんは取材の三カ月後に亡くなられてしまい、本当に貴重な最後の言葉になりました。 ――子供の頃には「アイヌ差別が物凄く強かった」って言われた方ですね。 森谷 そうです。各団体でリーダーシップをとられている方のインタビュー、さらにそれぞれの団体で活発に活動をされている方をピックアップして、取材を申し込んだ。欲を言えば、もう一世代下の若い人も入れたかった。いろいろあって、入らなかったんですけど。床絵美さんが、一番若いクラスですね。 ――床絵美さんも、「お母様」ですものね。 森谷 そうですね。床さんは歌も歌っていますが、彼女だけで一本映画を作れる程エピソードのある方です。床さんの場合、根っからのアイヌ。アイヌであることに変なこだわりがない。生まれた時から自分はアイヌだし、アイヌに対する屈折した感情がない。その上で、アイヌの歌を歌っている。 ――カミングアウトする必要がなかった。 森谷 なかった。東京へ出てきて、周りの人がアイヌについて凄く勉強をしていて、自分はアイヌについての勉強なんかしたことがないからと、違和感を感じたそうです。考えさせられました。本当はもう少し発言を使いたかった一人ですね。 ○アイヌ語で 「アメイジング・グレイス」を ――若い世代ということでいうと、パフォーマンス・グループ「アイヌ・レブルズ」なんかは、作品に出てこない。最初はライブを撮影されていると聞いていて、当然作品に収録されているものと思っていた。 森谷 レブルズは、最初のソロライブを撮っています。荒削りだけど、エネルギーが迸っていた。その後、伝統的なことをやっている人から批判されたり、いろいろあったと思うんですよ。収録する過程で、意見が合わなくなり、作品には残っていないんです。 ――レブルズ自体も解散してしまった。 森谷 ええ。でも、まだみなさん若いから、レブルズでなく個人個人で、これからしばらくして、それがどういう形か実を結んでくるのではないかと思います。 ――『TOKYOアイヌ』の作品的な長所であり、もしかすると短所でもあるかもしれないのが、映像構成の上手さだと思うんです。もっと撮りっぱなしの、対象を見せることに主軸を置いたドキュメンタリーであっても良かったという意見もあると思うんですが。 森谷 まとめ過ぎちゃったかなっていうのはありますよね。初期の編集段階では、六時間から七時間はありました。それを製作委員会と見ながら、二時間に絞っていった。上映運動的に二時間が限界だということがあったので。自分一人で自由に作るものであればいいんですけど、いちおう製作委員会との関係で作っていくという形になっていますから。 ――アイヌ各団体、個人、運動、社会的な動き、入れなきゃいけないものが沢山あるという中では、非常にバランスよく出来ていた。 森谷 あまり情報を詰め込み過ぎないようにしたいとは思いました。ナレーションやテロップで補完するのでなく、実際にしゃべっている人の生の声をなるべく聞いて欲しいと思った。それを見た人が自分なりの解釈で、誰かに伝えて貰いたいという思いはあった。だから、わかりにくい部分もあると思う。つまらなかったという人もいれば、エンタテインメントとして凄く面白かったっていう人もいて、両極端の感想が出てきている。それだけ幅のある感想が出てくるのは、いろんな目線でこの映画を見て貰っているからだろうと思っています。 ――当初話題になったのは、やはり熊谷たみ子さんのアイヌ語で歌う「アメイジング・グレイス」でした。あの歌が、映画全体を包み込むように存在している。床絵美さんの歌も基調旋律で流れていますが。 森谷 本当は昨年の三月に映画は完成しているはずだったんですよ。ところがいろんな事情があって延びてしまい、だったら六月に「アイヌ感謝祭」があるから撮ろうということになった。熊谷たみ子さんの歌は、感謝祭でアイヌ語で「アメイジング・グレイス」を歌うというのを聞いて、それは面白そうだということで。初めは、床さんの歌を頭とお尻に置いてサンドイッチしようかと思っていた。実際に熊谷さんの歌を聴いたら、この作品のエンディングに相応しいと思ったんです。アイヌ語の「アメイジング・グレイス」によって、世界に向けて普遍的なメッセージを帯びる映画になったと思っています。 ――NHKを始め取材が集中しましたね。 森谷 多分そうなるかとは思いました。しかし、あえて熊谷さんのバックグラウンドとかライフヒストリーは、一切出していない。 ――闘病中であるということも含めて。 森谷 そこまで出すと熊谷色が強くなるし、いかにもメディアが飛びつきそうなネタじゃないですか。彼女の歌だけで充分に伝わるものがあるし、そこから先はそれぞれ観客が、何らかの方法で熊谷さんの生きてきた道を知って、もうひとつ別の感動を得られるのではないかと思ったんです。 ――僕も、その後に熊谷たみ子さんを取材しましたが、非常に面白い生き方で、人間としても、歌手としても。 森谷 ラストで熊谷さんが歌っている画で、アイヌの衣装の下にキラキラと光るスパンコールを着ている。間奏の時にカメラがパンダウンして、アイヌの衣装の下からスパンコールのドレスが見えてくる。熊谷さん自身「あそこはつらい。あの二つの衣装の間で苦しんできた」って言われました。非情に象徴的なシーンになりました。そういう偶然の象徴的なカットというのはいくつかあるんですよ。 ――今回、鈴木宗男の「単一民族発言」に触れた箇所の問題から、おひとり全出演シーンがカットされ「十六人」のアイヌが「十五人」になってしまいましたが。 森谷 何度もその方とやりとりをしてきたんですが、結論的には出演部分の削除になってしまった。残念ですが、その上で映画の上映には反対しないということですから。 ――『TOKYOアイヌ』は、それだけナイーブな問題を内包しながら、重要な問題提起になる作品なのではないかと思っています。 森谷 上映活動もまだ道半ば、国内だけでなくアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど先住民のいる国でまず上映していければと思う。先住民の都市化という共通の問題があって、そこからいろんなネットワークが出てくると確信しています。 ――森谷監督ご自身の今後としては? 森谷 僕は、映像制作に拘らずに、最近は東京を離れて自給自足の暮らしが出来たらって思っています(笑)。 (了) |
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