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評者◆秋竜山
寺子屋での罰、の巻
No.3021 ・ 2011年07月09日




 中江克己『江戸の躾と子育て』(祥伝社新書、本体七四〇円)で、〈第3章‐江戸の子どもの教育事情〉に寺子屋のこと。寺子屋では、「読み、書き、そろばん」。今の教育事情とはちがうだろうが、当時の寺子屋の絵などをみると、
 〈いまの教室は机が教壇のほうを向き、整然と並んでいるが、江戸の寺子屋はそうではない。子どもたちは、読み方を教えている師匠に背を向けていたり、勝手なほうに向き、ばらばらだ。〉(本書より)
 今の時代にそんなことをしたら、まず先生が教壇の上で落ちつかないだろう。先生にとって黒板あってこそ、気の落ちつきをもつ。そのいい例として、元先生だが、仲間と酒などのみながら話している最中に、すぐいい出すのが、「黒板みたいなものはないかね」だった。話を説明するのに、黒板がほしくなるというものだ。職業病とでもいうものか。寺子屋には、黒板というものはなかった。だから生徒は、黒板の方角にむかって机を並べるここともなかったのだろう。好きなほうを勝手に向き、ばらばらの状態で勉強するのって、先生の顔をみたくない時は、先生に背を向けて座ればよいのだろう。「コラ!! こっちを向きなさい」と、先生に叱られることもなかったのか。
 〈師匠が用事ができて席をはずすこともあった。そんなときは、勝手に遊びはじめる。取っ組みあいをして、相手の顔に墨を塗ったり、障子に落書きをする。なかには、庭に出て柿を取って食う子もいる。帰ってきた師匠は、その様子に呆然と立ちすくむ。そんな絵もあった。〉(本書より)
 〈論語に「教えて厳ならざるは師の怠なり」とあるが、当時はその言葉通り、教育や学習にはきびしさがともなうのは当然で、きびしく教えないのは師匠の怠慢、と考えられていた。多くの親も、きびしく怖い師匠のほうが子どももきちんと勉強する、と思っていたようだ。〉というから、てんでんばらばらの教育でもなかったようだ。〈いたずらの罰〉というのがあって〈もっとも軽いのは「叱責」、あるいは「説論」だった。つまり、叱り咎めたり、悪いことを改めるよう、いいきかせたりするのである。〉〈つぎに「留置」とか、「謹慎」というのもあった。留置は居残りをして習字など復習することだが、謹慎は師匠のそばで正座をすることだった。〉〈そのほか、昼御飯を食べてはいけない「食止」、片手に線香を持ち、片手に水を満たした茶碗を持たされる「線香」、竹竿で手足を打つ「鞭撻」という罰もあった。これ以外にも、罰として教場や便所などの掃除をさせたりした。〉そーいえば、私も、水を入れた掃除バケツを両手にさげて、授業中に、廊下へ立たされたこともあった。立っている最中に校長先生が通った。「重いかな」と、いった。そして立ち去った。「運動場一周」というのもあった。一周すると百メートルあった。授業中なので誰もいない。とんでいるのは私一人だけ。今になってみて、子ども時代の想い出として、もっとも深みのある経験であった。そんな悪さをする生徒だったのではないだけに、めだったようだ。そのような罰は一生の想い出として残るものだ。だからといって、子どもにはすすめられないものである。







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