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評者◆秋竜山
そんなに画家になりたいのか、の巻
No.3018 ・ 2011年06月18日
その昔。マンガに出てくる画家のスタイルは、哀しいくらいビンボーそのものだった。ツギハギだらけの服に、ボサボサ頭にベレー。ブショーヒゲ。マンガというものは世間一般の常識にビンカンである。画家をそのようにとらえているから、マンガになっているだけのことだ。そんな中で、「画家になりたい」なんて、あってはならぬことだ。第一に、食べていけないということである。金持ちのお遊びの人生だったら、画家もいいだろうけど、ね。親父は「お前を絵描きにするために育てたんじゃァねぇ」というセリフいってんばり。「オオ!! そーか。絵描きになりたいのか。よくぞいった。えらい。なりなさい!! なりなさい!!」なんて、いう親がいたとしたら、どこか狂っていることになる。「これをみろ、こんな風になりたいのか!!」と、ビンボー姿の画家のマンガをみていう。でも、よく考えると、その頃でも美術学校などあったりするのだから、そこの学生たち、画家を夢みていたのだろうか。近藤祐『洋画家たちの東京』(彩流社、本体二八〇〇円)では、
〈明治三十二年六月、身なりも手荷物も簡素ながら、丸眼鏡の奥から不敵な眼光を放つ十七歳の若者が、東京汐留の旧新橋停車場に降り立った。過剰なまでの夢と野心を胸に、故郷久留米より単身上京した青木繁(一八八二~一九一一)である。〉(本書より) 不世出の天才洋画家にふさわしい登場のしかたである。 〈青木繁にとって東京にあることは、洋画家として世に出るために必須の条件であるのとは裏腹に、みずからの生き血を絞り、泥水を啜る貧窮との闘いであった。〉(本書より) マンガで描くところのツギハギだらけなんてものではない。天才だから、それもしかたがない代償であったかもしれない。そーまでして、画家になりたいのか。 〈「彼等は食う為でなく、実に飢える為、渇する為に画布に向う様なものである」(夏目漱石)〉(本書より) と、いうことになる。 〈大正元年、第六回文展を見た漱石は、東京朝日新聞に十二回連載の批評文を書いた。‐藝術を離れて単に坊間の需用といふ社會的關係から見ると、今の西洋畫家は日本畫家と比べ遙かに不利益の地位に立ってゐる。彼等の多数は隣り合せの文士と同じく、安らかな其日其日を送る糧すらも社會から供給されてゐない。彼等の制作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現はす機會に會ふ的もなく、永久に畫室の塵の中に葬むられ去るのである。(略)(夏目漱石「文展と藝術」)〉(本書より) この文章は色あせることなく、現代にも通用する。とにかく、食うためには画を売らなくてはならない。売れる画でなければならないのである。 〈「小品展」なる企画は、美術新報社も同年「新進作家小品展示会」を催していて、わざわざ「小品」と名づけるにはそれなりの理由があった。「洋画を普及させるには、洋画が日常生活に溶け込むことが大切であり、そのために、一般住宅に飾るのに適当な大きさの洋画の小品を、世人の買い易い値段で提供することが必要であると考えられた(村山鎮雄「画家 正宗得三郎の生涯」)〉(本書より) 世人の買い易い値段というその値段がどれくらいのものか。安けりゃァ買おう!! というものでもあるまい。そこが、むずかしい。 |
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