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評者◆添田馨
われわれの「存在」が語るべき時――怒りそのものが槍のように屹立していた和合亮一の「詩の礫」
No.3015 ・ 2011年05月28日




 3・11の震災をはさんで、詩の言葉の世界にもいろいろ予期せぬ不思議なことが起こり始めている。例えば、震災のずっと以前に作られた作品であるにもかかわらず、そのモチーフや表出の内容が今回の大災害を予見していたのではないか、とさえ思われるような作品がいくつも現れていることなどだ。無論これは主観的な評価であって、恣意的といわれてしまえばそれまでだが、事実、私じしんにも同じようなことが起こった。私はこうした事象は、状況によって十分にあり得ることだと思っている。
 瀬尾育生がある機会に、今回の震災を指して、これを「存在災害」だと呼んでいたのが強く印象に残っている。現実に被災した人は言うに及ばず、直接被害に遭わなかった人にとってもそれは「存在」の根幹を揺るがす大きな惨事だったという意味だろう。だからこそ、地震という存在、津波という存在、原発というこれら未曾有の存在が、詩の書き手の存在さらにはすでに書かれた詩作品の存在にまで共振しあった結果、そうしたことが起こったのだと言える。これは私たちの詩が、いわば予言の構造を持ちはじめた兆候でもあろう。まさに“震災は我が魂に”まで及んだ訳である。
 そのような中で、和合亮一が被災地の福島からツイッターを使って発信し続けた「詩の礫」は、まさに「存在」が発する言葉そのものだったと言っていい。つまるところ、それは大きな怒りに満ちている。誰かに対する怒りなのではない。怒りそのものが槍のように屹立しているような怒り。彼のそうした一連の言葉の群れが詩であるか否か、そんなことはこの際どうでもいい問題だ。重要なのは、それがまぎれもなく和合亮一という「存在」が、じかに発信した彼自身の「存在」の言葉だったことにある。
 人知の及ばないプレート間の巨大な震動、あるいは原発事故というまさに国家の原罪としての暴力――こういうものとまともに直面せざるを得ない時、人の言葉は恐らくどうしようもないくらいに無力であるだろう。だから言葉が、そのときに至ってまだおのれのパワーを発現させ続けているとすれば、それはもはや人間がではなく、「存在」そのものが語っているからなのだ。地震は地震の言葉で、津波は津波の言葉で、原発は原発の言葉でいまも現に語り続けている。私たちはみずからの存在レベルで、その蒼ざめて不気味で恐怖に満ちた声ならぬ声を聴き分けている。まちがいなくわれわれの「存在」が語るべき時がやってきている。震災後という時代の、それは宿命のようにも思える。
(詩人・批評家)







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