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評者◆矢部史郎+『来たるべき蜂起』翻訳委員会
新しい革命期を生きはじめているわれわれ――原発という国家と資本の聖遺物から立ちのぼる烽火
No.3015 ・ 2011年05月28日




 フクシマの廃墟は、放射性物質を吐き出しつづけている。深刻な被曝は東北や関東一帯におよぶだろう。広島、長崎、スリーマイルやチェルノブイリとは比較にならないほど巨大な都市圏が核の災害にさらされている。
 この「例外状態」の常態化のなかで、原子力政策がせまっているのは諸権利の放棄である。その領域はおおむね二つに分類できる。(1)生産領域の権利(土地、生産設備、住宅等の財産権、入会権、顧客、事業取引と雇用関係など)。(2)再生産領域の権利(健康、出産・育児、教育、遊びなど)。財産にかかわる前者を放棄すれば(退避すれば)健康な生活がかろうじて残されるだろうし、生命にかかわる後者を放棄すれば(退避しなければ)当面の収入や財産は維持できるだろう。
 低線量の被曝について、政府は「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」とくりかえしているが、これは判断を住民にゆだねたものと解することができる。つまり従来の「生命と財産の保護」は断念され、「生命」か「財産」のどちらかを選ぶことが求められている。政策の責任をあらかじめ民衆に転嫁する自己責任/自己決定論であり、あらわになっているのは原子力政策/新自由主義政策の地金である。
 しかしながら、関曠野もいうように(本紙四月二三日号)、多くのひとびとはそうした選択自体をいまのところ拒んでいる。事故そのものについては、なんら「想定外」ではなかった。高木仁三郎、田中三彦、藤田祐幸、小出裕章などのアカデミックな警告や、それらをふまえた言論はよく知られていたはずである。事故の直前にも、広瀬隆の『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社)にもとづく特集が『DAYS Japan』誌一月号で組まれていたし、そこで浜岡原発についていわれる「電源喪失事故の恐怖」「津波による冷却不能の事態」等はそのまま福島にあてはまることである。
 にもかかわらず、被曝地帯からの大規模な脱出は生じなかった。このことは二つの帰結をもたらしている。第一に、日常性の強化による心理的なハラスメントの発生である。被曝しながらも生産領域を維持しようとすることで、生命の危機の感覚にたいする抑圧がゆきわたる。テレビや新聞での「復興」の強迫はもとより、「日本人はいまや日本人であることを誇りに感じている」(東浩紀、ニューヨーク・タイムズ、三月二四日)や「日本は立場を明確にすべき」(大江健三郎、ル・モンド、三月一七日)といった発言も、固着すべき日常の投錨点として「日本」や「日本人」という表象がよびもどされていると解釈できるだろう。おそらくその延長線上に、原発推進派の石原慎太郎の都知事四選というグロテスクな倒錯も位置づけられる。
 他方、第二の帰結として、政府がせまる選択を拒否した者たちによる叛乱の生成を見落としてはならない。そこで生起しているのは、心理的なハラスメントをもたらす日常のくびきそのものの破壊である。とりわけ都知事選と同じ四月一〇日には、リサイクルショップ「素人の乱」経営者松本哉による反原発のよびかけに、一万五千人以上の群集が東京の高円寺に出現した。政党や労組によらないデモとしては戦後最大規模といってよい。この出来事が重要なのは、それがモビライゼーションの流動的なひろがりを示していることだけではない。ラッパーRUMIがサウンドカーから「原発卒業」というそれ自体は温和なスローガンを雷撃のようなMCによって指令語へと変換させたとき、街頭は一時的に占拠された。地殻の変動は若者たちの身体と共振し、震災による死者たちの地霊とともに、国家と資本の廃炉が思いえがかれたのである。
 「災害ユートピア」(ソルニット)の機制の一端なのだろうか? すくなくともいえるのは、もはや「過渡期」(吉本隆明)や「反動期」(若松孝二)ではなく、「アラブ革命」(『現代思想』四月臨時増刊号)の到来が端的に告げているように、われわれは新しい革命期を生きはじめていることである。そのこと自体は、喜ぶべきことでも悲しむべきことでもない。三島憲一によれば(『ニーチェ以後』岩波書店)、かつてのヨーロッパの革命は道徳に支配された陰鬱な一九世紀をもたらした。宗教的な儀礼が横行し、産業資本の搾取のなかで帝国主義が台頭する。フーリエやマルクス、ニーチェやランボーは、革命後の暗愁のなかの輝きにすぎない。
 同じことは、われわれの革命期についてもいえるだろう。先にふれた高円寺のデモは、主要なテレビや新聞は無視した。朝日新聞が翌日の朝刊で伝えたのは、フランスにおける数千人の反原発デモである。こうした否認と置換による「無力さの製造」(イヴ・シトン)は、一世紀前の米騒動以来かわらない。だが、富山の数十人の女性たちのふるまいは微細な通路をつうじて漏出し、やがて万単位の暴動へとひろがっていった。パニックを肯定し、クラックを押しひろげるべきだろう。それぞれの持ち場で事件に黙って処すのではなく、政治とアート、行動と表現といった設定に巣食う、目的と手段の循環を断ち切らなければならない。原発という国家と資本の聖遺物から立ちのぼる烽火は、われわれをカタストロフの情熱へとさそっているのである。
(海賊研究+『来たるべき蜂起』翻訳委員会)







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