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評者◆秋竜山
時計をしていないんですか?、の巻
No.3014 ・ 2011年05月21日
古東哲明『瞬間を生きる哲学――〈今ここ〉に佇む技法』(筑摩選書、本体一六〇〇円)を読む。――の、中で。面白いのは、やっぱり〈時間〉に関することだ。息子が高校生の頃だった。息子がいった。「お父さん、今日、面白いことがあったよ」。その面白いこととは、朝、通学の途中、信号待ちをしていると、隣にいた人が、息子にむかって、「今、何時でしょうか?」といった。「すみません、今、ちょっと時計を持っていませんので……」と、その隣の人がいった。時間を聞かれた息子が、「アッ、すみません、実は僕も時計をするのを忘れてきたもので……」と、いった。すると、同時に、まわりにいた数人がいっせいに、無言で自分の時計を見た。……と、いうことであった。息子はそれを面白がっていた。それを聞いて私も面白がって、二人で笑った。
〈あわただしいこの毎日の時間印象。だがそれはあくまで、ぼくたちの「時間感覚」に由来する。時間「感覚」は、天然自然なものではなく、人為的に作られたもの。社会制度や文化形成と連動しながら成立した、人為制度である。それこそ、天然自然に生きる他の生物たちのことを考えれば、よくお分かりになるだろう。二千年前にローマ郊外でのんびり昼寝していた猫と、現代の都会の路地裏を歩いている猫と、その時間感覚が異なるはずがない。人間だけである。時間という観念によって、その感性も行動も思考も変化させ、追い立てられ、どよめいて呻吟している動物は。〉(本書より) 田舎へ行くたびに思うことは、田舎の風景は変化しているようでちっとも変わっていない。昔のままである。そんな中で、うまれてずっと、うまれた家で生活している。そして、年月が過ぎ、そこで一生が終わっていく。そーいう人もいれば、社会人になると同時に、その田舎を出て、新たな場所で生活するもの。はたして、どっちが幸せなんだろうか。こーいうことも考えたりもする。木には年輪というものがある。一年に一輪。その数で何年の生命であったかがわかる。ところが、もし、年輪というものがなかったら、その木は何年生きたか証拠がなくて、調べようがない。木にとっては、自分の歳である年輪などというものはどーでもよいことで、知る必要もないだろう。人間だけが年輪を数えたりするのである。 〈時間が、人為的に構想された約束事のパラメーターであることを、まったく忘れてしまう。だから時計などの計時器をつかって、時間記号に従って〈時刻〉を読みとったり、あるいは時刻に合わせて行動を調整することが、ごく当然の所作となる。そうしないほうがどうかしている(狂ってる)というわけだ。〉(本書より) 今、時計をしていない人のほうがめずらしい。どうして、時計をしていないんですか?と、聞いてみたくもなる。どの人もどの人も腕に時計をはめている。そして、ちっとも不思議とも思えないが、その時計の針は、同じ時刻の位置にある。当たり前のことだ。それが時計というものだろう。ところが、十人が十人とも針が別の所をさしていたらどーなのか。全員、狂った時計をしているということだ。そーいえば、自分の無人島マンガ・シリーズの中にこーいうのがあった。無人島に何人かで生活している。そこへ新しい人が漂着した。その人にむかって住人が腕時計をみて「キミの新しい時間にあわせよう」。 |
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