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評者◆納村公子
農業税等廃止後の中国農村――出稼ぎ労働と脱農業、土地徴収の不安
No.3011 ・ 2011年04月23日




 三月初め、『中国農民調査』(二〇〇四年刊、邦訳は〇五年・文藝春秋)の著者夫妻、陳桂棣さんと春桃さんの紹介で、江南の農村を訪問した。
 かつて安徽省を基盤に執筆活動をしていた両氏だが、現在は湖南省に近い江西省の地方都市に居を構えている。その都市までは在来の夜行列車で行くのが最も便利であった。
 この二十数年来、中国政府は交通インフラ建設に力を入れ、とくに道路状況は各地を結ぶ高速道路が整備され、鉄道では新幹線ベースの高速列車も走るようになった。しかし、地方都市を結ぶ鉄道は以前とほとんど変わっておらず、乗り合わせた人と雑談をかわすのんびりした旅となった。
 訪問先は湖南省醴陵市郊外の東堡村と、江西省萍郷市郊外の橋頭村である。二村とも市とは定期バスで結ばれている。もっともバスは車体が古く、道は舗装されてはいるが、あちこち割れ目があって、トランポリンのような上下振動を味わった。
 どちらの村も、中国全体で見れば比較的余裕のあるところだった。夫妻の話によれば、二〇〇四~〇六年、温家宝の英断によって農民への税負担(農業税、農業特産税、割当金)が段階的に廃止され、江南地方ではほぼ六〇パーセントの農村が、生活に余裕ができたという。「もし温家宝がいなかったら」と陳氏に聞いてみたところ、「温家宝がいなければ実現できなかった」ときっぱり答えた。温家宝の決断が実現したことには、『中国農民調査』というルポルタージュが大きく寄与したことは間違いない。しかし、一人の政治家の存在がこれほどの作用を持つならば、権力者の恣意で社会が左右される状況に変わりはないように思える。
 税負担が大幅に軽減されたことでもたらされた余裕は、ほとんどの家がこの五、六年に建てられた新築であることからもわかる。さらに、東堡村では主として輸出用の陶器をつくる工場があり、若い人の就職先となって村に安定した収入をもたらしていた。工場は民間企業で、長沙出身のオーナーが村の労働力に目をつけて建てたものだそうだ。こうした状況は農家に家族団らんをもたらす一方で、マクロで見れば、沿海地区の労働力不足を招いている。話を聞いた女性も工場で働いているが、以前は都会に出て食堂を営み、二人の娘を大学に進学させ、家を建てた。現在はトラック運転手をしている夫と義母との三人暮らしだ。
 橋頭村は、約百年の歴史のある村で、伝統の民家や、かつて使っていた水車も残っていた。この村には、家具の木工所はあったが、東堡村のような村を支えるような産業はなく、どの家も若い人は遠くに出稼ぎに行っている。話を聞いた家庭は、二十代の娘さんが出稼ぎを終えて家におり、両親と彼女の姉の子どもと四人で暮らしている。この家も新築だ。彼女の姉は萍郷市で食品販売のチェーン店を一人できりもりし、その夫は広州に出稼ぎに行っている。姉夫婦は萍郷市の新興住宅区にマンションを買い、二人で懸命に働いてローンを返している。
 農民が家を建てる場合、ふつう銀行はローンを組んでくれないので、いずれの家も親戚や知り合いからお金を借りて建て、出稼ぎで得た収入で返済したのだそうだ。いまは村に帰っている橋頭村の娘さんは、友人たちと共同で衣料品店を開く予定なのだそうで、萍郷市まで一緒にもどってきたとき、仲間の女性二人と物件を見に行くと言っていた。
 彼らはみな勤勉で、将来を自分の力で切り開こうというやる気にあふれていた。
 文革(一九六六年~七六年)の影をひきずっていた二十数年前の農民は、私の頭の中で、すべてをあきらめきっている無力感のかたまりのような印象で残っている。現在の「農民」はその時代の人とは違う。かつては人を見れば都市住民か農民か、すぐにわかった。しかし、いまはほとんど変わりない。それは、農民たちが生きる道を求めて、都市に出稼ぎに行ったことと深い関係がある。一九九〇年代初めの農民労働者(農民工)は、文字の読めない人も多く、過酷な労働をしいられても黙って耐えた。次の世代の農民工は、出稼ぎに行って文字を覚え、技術を身につけていった。三代目にあたる現在の十代、二十代の農民工は義務教育はもちろん、専門学校まで出ている人もいる。昨年、ホンダの広州生産工場でストライキを起こした工員たち、IT分野の受注生産企業、富士康の深セン工場が有する三十万もの従業員の多くが、それにあたる。地元に産業ができ、農民工の教育レベルが上がれば、安価な労働力に頼る中国の生産工場のあり方は変わっていかざるを得ないだろう。
 もう一つの問題は、農民の農業離れだ。農民の生活を支えているのはなんといっても出稼ぎ労働であり、農作物は自宅で消費する分しかつくっていない家庭も多い。農業が立ちゆかなくなっている理由には、種や肥料、灌漑設備にかかる費用が年々値上がりしていることがあり、ますます若い人を出稼ぎ、すなわち脱農業に追い立てている。今後の中国の農業がどうなるか、世界の食糧問題につながることとして考えたい。
 戸籍制度によって「農民」という身分にされた人々には、重い税負担をしいるばかりで教育や医療などの福祉の保障をほとんどしてこなかった中国だが、農業税などを撤廃すると同時に、九年間の義務教育は県レベルの政府が資金を出すことになり、医療では中央と地元の政府(郷鎮の役所)が医療費を負担し、患者本人は三〇パーセント負担となった。建国以来六十年近くなって農民はやっと国民レベルになったと言えるだろう。
 しかし、こうした国の政策がすべてに行き渡っているわけではないことは、「江南の六〇パーセント」という夫妻の見解にも表れている。実は、政策がおおむね実施できているのは、比較的経済的に余裕のある地方であり、より貧しい地方では、あいかわらず村役人が恣意的な取り立てを行い、無償の義務教育が実施されていない。さらに、農民の激しい反発を招くのが、地方政府による土地開発に伴う土地徴収である。中国では都市部も同様に土地は国家の所有であり、農地も住宅も国民に与えられるのは使用権である。不動産税は発生しないが、現在各地で実施されている新都市建設の計画内に入ってしまえば、農地は取り上げられ、住宅も取り壊しの憂き目にあう。これが農民そして農業をさらに不安定にしている。また、こうした土地開発では、住民に対してしばしば暴力団まがいのいやがらせや強制立ち退きが行われることも多い。
 目を瞠る経済発展には文化の破壊と人権侵害が伴っていることを忘れてはならないと思う。 
(翻訳家、日中学院講師)







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