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評者◆小野沢稔彦
若い女の「膣」の中に生成される、小さなジャガイモの実に刻印された歴史――クラウディア・リョサ監督『悲しみのミルク』
No.3009 ・ 2011年04月09日




 『悲しみのミルク』(クラウディア・リョサ監督)は、若い女の「膣」の中に生成される、小さなジャガイモの実に刻印された歴史、すなわち徹底した劫掠と、その結果奪われた言語世界が生み出す虚無の時空に対峙し、言葉ではない身体の蠢動を媒介に、抵抗の方法を視つめ、愛を唱い上げる物語として、支配的で制度となった西欧近代の方法とはまったく違った、被抑圧者の新しい生の運動を幻視する圧倒的に刺激的な作品なのである。
 まず冒頭、暗黒画面――ゴダールなどの西欧的方法としての黒画面を超えて、この映画では表象の不可能な情況において度々現われる――の中で、ケチュア語によって、女の母親は書かれた歴史に対する呪詛、すなわち子供を身籠ったまま陵辱され、夫を殺害された現実を物語る。そして生まれた女は、ジャガイモを胎内に育成しながら寡黙のうちに「女」となる。
 この映画を観ながら私は、およそ25年前の「ソ連」時代のシベリアの寒村のことを憶い出していた(プライベートなこと、容赦願いたい)。戸数五戸、電気も井戸もない、八ヶ月を冬に閉ざされる少数民族(ショール族)の集落で、私は二週間程を過ごしたのだったが、その集落で短い夏に収穫され、彼らの命を繋げていたのが、実に小粒な(この国のブランドジャガイモとは違って)、わずかに穫れるジャガイモであったのだ。この小さな実こそ、南米の山間に自生し、インディオの命を繋ぎ、1492年に始まる西欧世界の世界的略奪戦争の結果、西欧を経由してやがて世界中に拡がり、その末に500年の時を隔てて、シベリアの少数民族の命を繋げている生命の実なのだ。この世界史の現実の裡で、女の膣の中に生きる小さな実はどんな味と意味を持っているのだろうか。
 ジャガイモの実にはまず、西欧近代の劫掠の歴史とインディオに対する全存在抹消の記憶が封じ込められ、同時に命を繋いだ母の乳の如き生命の記憶とが秘められてある。そして同時に、西欧周縁の貧しい民衆の飢餓とその救済の記憶とが刻印されているのであり、女は世界史にとっての歴史の全てを膣の内に抱き続けており、今もその実は確実に生成しているのだ。ジャガイモに込められた多様な記憶。女は究極の時空の裡で、書かれることのない歴史をジャガイモというモノによって表象し、その具体的なモノを胎内で変革の行動へと――それはやがて産み出されるだろう――現実化しようとする(目取真俊が沖縄民衆の歴史を、生成する巨大な冬瓜の裡に視たように)。女によって作り出される身体的パフォーマンスは、制度化された言葉によってではない。それは歌であり、身振りであり、身体が産む変革の予感性であり、自らの膣の中にジャガイモを生成しようとする現実の鳴動なのであるが、それこそが女と民衆との生への願望なのであり、500年の負の歴史を追体験し、西欧的な言葉とは別の身体言語によって物語られる、生成するインディオに独自な運動なのであるだろう。そして、膣の中に封印されてある未成の〈変革の言葉〉は、やがて具体的に解放されねばならない――なぜならそのままでは、そのモノは彼女を縛り彼女の桎梏となるだろうから。
 女は具体的な解放への方法を模索する。例えば、女が突然に唄い出す彼女にしか唄えぬ〈歌〉である。しかしそれは、今のところどんなに美しくとも、個のウタとしてあり、民衆へと通達しているわけではない。だからその彼女に独自な歌は、彼女を雇う女主人=音楽家によって簒奪され、西欧風の意匠を凝らされ、感動的な現代音楽として――西欧近代音楽は、その疲弊が明らかになる度に、周縁の音を導入し、そのことを通して新しい音楽シーンを切り拓いてきた――再編成されるだろう。こうした表面的には好意ある〈文化侵略〉こそは、現実として西欧によるインディオの内面の収奪と支配の、現代にも続く極めて悪意ある裏切りとして現出する。だからこそ、秘されたモノが必要なのだ。この、歌を媒介とする収奪と抵抗の戦いの裡に、西欧近代の劫掠の歴史と、それに耐え抵抗の方法を模索するインディオの記憶は、深く彼らの身体の内部に刻まれ、私たちの目には見えぬ記録されぬ戦いの歴史として、この映画において鮮やかに浮上する。
 それにしても何と不安に満ちた貧相な顔を持つ女音楽家――性への特殊な偏見を帯びた――と、抑圧者への回路を拒絶したインディオの若い女=マガリ・ソリエルの美しい顔の対照性の中に、抑圧と被抑圧、その内面の不安と抵抗の力とが圧倒的に現われてはいまいか。やがて一人で戦ってきた女の前に、同伴者として、彼女が見ることのなかった父のイメージを秘める初老の庭師が現われる。二人の身体的感応と、それを媒介とする心的交流は、現在の抑圧的社会の中での関係性とはまったく別な位相において深まる。特に女が抑圧的社会との断絶を身体的に現出する、鼻血を噴出し気を失う身体反応が現われる時、その現象が西欧の〈病気〉とは異なった、被抑圧者の心性が発する身体による拒絶の〈意思表示〉であることに鋭く感応して、男が女を担ぎ上げ、女の住居へと運ぶ道行の光景に、男の女への新しい関係性を紡ごうとする意志が漲っている。この道行の時、リマの中心街にある音楽家の家から山上にあるインディオの集落とを結ぶ長い階段の昇り降りに、ペルー社会の地政学的表象、富裕と貧困、抑圧と被抑圧の社会的現実が鮮やかに浮かび上がる。スペイン語を拒否したケチュア語の抵抗の道行。そしてまた、二人の間に交わされる様々な愛の交換は実に美しい。ここでは〈歌〉は民衆の歌となる。
 そしてラストシーン。庭師によって女の胎内から、この現実の中に採り上げられたジャガイモは小さな花を咲かせ、女の元に、映画の先の時間の象徴として届けられる。『悲しみのミルク』は、長い抑圧の時間に抵抗するインディオ民衆の集団的想像力による、私たちが思考だにしなかった身体的運動を、鮮やかに表象する美しい物語なのである。
 最後に余談。『悲しみのミルク』という曖昧なタイトルではなく、せめて「遺憾の乳」あるいはスペイン語原題の「驚きの乳房」とした方が公開題名としても良かったのではないか。なぜ題名にこだわるのか。「膣」の中でジャガイモを生成するこの物語は、インディオ民話などに、その出自がありそうであり、深く広いインディオのリアリズムを感じさせるタイトルであってほしいからだ。
(プロデューサー)
『悲しみのミルク』は、4月2日(土)ユーロスペース、4月23日(土)より川崎市アートセンターほか全国順次公開。







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