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評者◆秋竜山
なにからなにまで「かわいい」、の巻
No.3001 ・ 2011年02月12日
四方田犬彦『「かわいい」論』(ちくま新書、本体七〇〇円)を読む。
「かわいい」に「論」がつくと、とたんに面白くなる。もちろん、面白がらなければ、ちっとも面白くない。面白いということは、そーいうことか。テレビのお笑い番組がそーだ。面白がって観ていると(自分にいいきかせて)けっこう面白い。そーいう気持ちを持ちあわせていない時、面白くないということは、誰のせいでもない。自分のせいだ。 〈「かわいい」に対立しているのは、他ならぬ「無感動」であり、「ふつう」「つまらない」「ダサイ」「味気ない」「興味がない」「無反応」「愛嬌がない」「シンプル」「ときめかない」「さえない」「はずれ」「そっけない」といった言葉である。これに逆にいって「かわいい」が感覚的な躍動感を喚起し、溌剌とした生に基づいて好奇心をそそる状態であることを意味している。〉(本書より) かわいいという言葉を連発する時代である。なにが驚いたかというと、ラーメン店で注文したラーメンが出された時、その女性が、「かわいい~」と、口にしたことだった。私にしてみれば、ラーメンのどこがいったいかわいいのか。私は自分に出されたラーメンをシゲシゲと眺めたのであった。ちっとも、かわいらしさなどなかった。(おいしかったけど)。 こーなってくると、「かわいい論」にとっては論外といわねばなるまい。なにからなにまで「かわいい」んだから……。 本書で〈「かわいい」女優の系譜〉というコーナーがある。「かわいい」と「美しい」の対立だ。最初に記したのが「かわいい」、括弧の内側に記したのが「美しい」。これは回答者が抱いているイメージであるという。 〈近寄りやすい(近寄り難い)。胸がキュンとして守ってあげたくなる(整然として清らか)。子供っぽい(大人の成熟)。俗っぽく、わかりやすい(隔絶されていて、魔術的な影響力をもつ)。不完全なところがある(完璧で手のつけようがない)。時代によって大きく基準が変化する(時代を超えて存在し、全世界に通じる)。小さくて華がある(適当な大きさをもち整っている)。子供にも理解できる(大人にならないと理解できない)。どこかに遊び心、滑稽なところがある(清らかでキリッとしていて、オーラを放っている)。〉(本書より) 抜枠したものである。〈たとえばわたしの専門である映画史にかぎっていうならば、この「かわいい」VS「美しい」の対立は、往古の神話的女優である李香蘭(山口淑子)と原節子の間にも、若尾文子(「低嶺の花」「女中顔」)と吉永小百合(「聖女」「おしっこもしない」)の間にも横たわっていたものであった。思えばわたしの映画史的探究とは、この二つの魅力を弁別する作業に捧げられていたのだと、今にしてわかった。〉(本書より) 女優での美しいというと、やっぱり原節子ということになるのか。原節子を「かわいい」というには、美しさを超えなければ、いえる言葉ではないだろう。「きれいだ」というのもある。「美しすぎる」という言葉が流行した。ちょっとした笑いもうまれるというものだ。 |
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