|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆神山睦美
「無償の贈与」としての共同体とはどのような存在か
No.3001 ・ 2011年02月12日
柄谷行人『世界史の構造』は、この国の戦後が、半世紀を越える時間を経ることによって、ようやくもつことのできた普遍史の試みということができます。それは、一九四九年に刊行されたヤスパースの『歴史の起源と目標』に匹敵する書といっていいでしょう。かつて加藤典洋が、同じヤスパースの『戦争の罪を問う』について、この国の戦後がもつことのできなかった思想がここにあると述べたことがありましたが、そういう意味でいえば、『世界史の構造』をもって、私たちはヤスパースに肩を並べうる思想をようやくもつにいたったといっていいのかもしれません。
ヤスパースが、歴史の起源に、彼みずから枢軸時代と名づけた、紀元前五世紀を前後する時期に輩出した思想の型を据えたように、柄谷さんもまた、歴史の目的が、起源への回帰としてあるということを明らかにしました。起源とは、「抑圧されたもの」であり、私たちの眼から隠されたものです。それはヤスパースのように、儒教における仁・義・礼・智・信、仏教における涅槃、ゾロアスター教における生命・真理・光、ユダヤ教におけるメシア、そしてギリシア哲学における叡智と覚醒といった具合に取り出してみせることのできるものではありません。そこに一様にみとめられる倫理的なありかた、そして、それを成り立たせる交換様式として示唆しうるものです。 いやむしろ、そのような様式やありかたといったものにも決して結像することなく、ただ、抑圧する強大な力との対位において見出されるもの。そういった方がいいのかもしれません。ここのところをしっかり押さえておかないと、なぜこの本が、『歴史の起源と目標』に肩を並べうる普遍史の試みであるかが理解できないことになります。 たとえば、そのような交換様式、倫理的なありかたは、第二部・第四章「普遍宗教」において、呪術的世界における互酬交換、呪力(ハウ)の働き、贈与の力として論じられています。しかし、これが、普遍的な「神性」を獲得するためには、氏族社会が、古代国家へと移行していなければならない。共同体と共同体との交易を可能にする原都市=国家が現われ、それら都市国家の乱立と競合を通して集権化がすすめられていなければならない。ヤスパースの言葉でいえば、無数の小国家や都市が歴史上はじめてのように鼎立し、驚異的な繁栄と、力と富の展開が可能になっていなければなりません。 そこに、国家社会における支配と服従という関係、さらには貨幣経済と商品交換が可能にする急進的な平等関係が現われてくるといえます。 それは、いってみるならば強大な力となって、起源にある互酬・呪力・贈与を解体します。そのことによって、人間はみずからのうちに、絶対受動ともいうべき存在様式をはじめて見い出すことになるのです。同時に、支配と服従の関係からなる国家社会からも、原初的な商品交換を成り立たせる市場からも追放されて、石ころだけの荒野に一人さ迷い歩くような仕儀にいたります。そのとき、人間は自分たちがなにものであり、どこから来て、どこへ行くのかという問いをも余儀なくされる。いかなる安心からも見放され、奈落を目の前にするのであるといってもいいでしょう。 そのなかから現われるものこそ、メシアとしてのイエスにほかならないのですが、これが、あくまでも人間に強いられた受動的なありかたの表徴にほかならないということに注意しなければなりません。 柄谷さんは、福音書におけるイエスのメッセージは「神を愛せよ」と「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」の二つに要約されるので、それは結局のところ、「無償の贈与」を意味しているのだといいます。メシアとしてのイエスにおいて、起源にある互酬・呪力・贈与があらたなかたちで見い出されるということにほかなりません。注意したいのは、それが「死と犠牲」においてであるということです。呪術世界におけるマナや、ポトラッチやハウといったものが、もう一度見い出されるためには、強大な力によって「死と犠牲」が遂行されなければならず、そのような権力に対位する絶対受動の存在様式が問われなければならない。 『世界史の構造』はこれを、互酬的共同体(アソシエーション)という理念によってあらわします。とはいえ、それはあくまでも、普遍史という視点から提示された理念であって、このアソシエーションとは、たとえば大審問官とイエスの対位をモチベーションとしなければ成り立つことのないものということもできるのです。 柄谷さんによれば、「死と犠牲」の起源は、フロイトの『トーテムとタブー』で明らかにされた、呪術世界における父殺しと兄弟団結にあるということになります。一般的に言われているように、この『トーテムとタブー』に共同体を司る権力と超自我の抑圧を読み取り、それとの葛藤といった機構を見い出すこともできないことはありません。しかし、「トーテム」とは共同体における供犠というだけでなく、イエスの「死と犠牲」をも象徴するものであるというのが、柄谷さんのいわんとするところです。 フロイトにとって父殺しとは、たんに抑圧するものの排除をいうのではないことは、『人間モーセと一神教』からも明らかです。そこで、「父」とはモーセの謂いにほかならないので、このモーセこそが神への愛と隣人への愛を、イエスに先がけて説いた者にほかなりません。問題は、そのようなモーセが、この世界から抹殺されなければならなかったというところにあります。 捕囚されたユダヤ人を引き連れて、エジプトから脱出したモーセは、イエスに先がけて「無償の贈与」を行ったからこそ、イエスの十字架の死を予行するかのように、死を余儀なくされることになった。そこで起っていることはどういうことなのかというならば、やはり大審問官とイエスの対位に当たるような事柄であるといえます。 フロイトによって提示されたモーセ=エジプト人説をたどっていくならば、その宗教理念が、エジプトのイクナートン王の信奉した一神教にいたりつくということになるのですが、このエジプト王こそが、神への愛と隣人への愛を実現するためには、強力な力としてのロゴスの全一性を必要とするということに最初に気づいた者なのです。そういうロゴスの全一性との対位において、純粋な贈与が現われるということに気がついた者といってもいいでしょう。 大審問官の政治学が、絶対的多数の群衆に対する同情から成り立っているというのは、彼ら多数の群衆に現実化されている競合関係を、どのように処理するかという関心にかかわるものといえます。それは、同時に強力なロゴスを通して、都市国家の乱立を統合するような契約関係を生み出していくということでもあり、そのことによって一神教的な超越神を国家の機軸とするということです。モーセを動かしたイクナートン王の宗教理念が、ここにあることはまちがいありません。 (文芸批評) ――つづく |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||