|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆神山睦美
加藤典洋のいう「ねじれ」と死者の哀悼、そして連合国の力の論理
No.3000 ・ 2011年02月05日
このことを、加藤さんは、そういうホールデンをホールデンたらしめているのは、「理想のために高貴な死を選ぼう」とするのでも「義のために卑小な生を選ぼう」とするのでもない、ある選択にあるのだといいます。いわば、ホールデンのちゃらんぽらんな受け答えに象徴される「自分を小さな雑魚の群れに変え、かけらのようなものにする」真理への抵抗こそがそれなのだというのです。加藤さんの『敗戦後論』には、確かにさまざまな論議を呼び起こす点がありましたが、ここから潜っていくならば、戦後におけるねじれの問題も三百万の死者の哀悼も、まったく真摯なものとして提起されていることが理解されます。
加藤さんのいうように、わが国の戦後責任が、連合国の強大な権力をどう受けとめるかという問題を抜きにしては語れない面があることは、まちがいありません。広島、長崎への原爆投下と無条件降伏政策、さらにはGHQによる占領体制というものが、どれほど強圧的な力としてはたらいたかを、敗戦国の国民である私たちは、喉元過ぎれば熱さを忘れるように記憶から消し去ってきた。それを象徴するのが、憲法第九条にほかならない。これが総司令官マッカーサーの命によって作成された草案を下敷きにして成ったものであることは、動かしがたい事実である。日本政府は、この草案を民生局長官ホイットニー准将が「原子力的な日光のなかでひなたぼっこしていた」十五分の間に審議し受け入れるということをおこなったのだが、ここには、戦後を考えるにあたっての修復不可能な「ねじれ」があるといわなければならない。 これが、加藤さんの言わんとするところなのですが、もう一つ、この「ねじれ」のために、私たちは、わが国における三百万の死者をどのように哀悼するかという問題を、長きに渡ってないがしろにしてきた。そのことによって、二千万のアジアの死者の哀悼と謝罪という問題に対しても、正面から向き合うことができないできた。ここから例の「三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道が編み出されなければならない」という主張がなされたのでした。 なぜわが国の戦後の「ねじれ」と、三百万の自国の死者への哀悼がむすびつけられるのか。原子力的な日光に照らされた戦後の日本には、戦死者を「無駄死させなければならない」という思想の育つ場所がどこにもなかったからです。たとえば、戦後という四方が壁で仕切られた果てしのない空間をイメージしてみてください。そこにはドアがあって、それを開けるとそのなかが一望に見渡せる構造になっているとします。そう思ってドアを開けてみるのですが、予想に反してドアの向こうには「奈落が口を開けている」。 三百万の死者とは、この奈落の向こうに追いやられた存在にほかなりません。彼らの「無駄死」を「無駄死」と受けとめ、これを哀悼するとは、ではどういうことか。何もかもが嫌で嫌でたまらないにもかかわらず、ライ麦畑のキャッチャーにだったらなってもいいというホールデンのかけらのような抵抗を受け入れるということです。そのことによって、彼らとの間にか細いままに通路をつけるということにほかなりません。加藤さんの論をたどっていくと、そういうことになるのです。 しかし、論敵からすればなぜそれが、三百万の自国の死者でなければならないのか。むしろ、二千万のアジアの死者こそが、わが国をはじめとする列強の侵略によって、犬死させられてきたのではないか。彼らの犬死をこそ何よりも先に哀悼しなければならないので、それは侵略者の手で汚れた者にとっての贖罪にも値するものということができる。そこからするならば、加藤さんのいう「三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道」には、戦争の罪という問題がすっぽりと抜け落ちているということになります。 こうしてみれば、高橋哲哉をはじめとする加藤さんの論敵が、これを「汚辱の記憶」をもちつづけなければならないという論脈のもとに論陣を張ったのには、理由があったということができます。しかし、加藤さんからみて、そのような論脈には、どこを探してもホールデンのかけらのような抵抗というものがみられない。二千万のアジアの死者をほんとうに犬死させるためには、ほとんど無限のといっていいような奈落を前に、それでもその「クレイジーな崖っぷち」で、次々にやってくる子供たちをキャッチするということができなければならない。このちゃらんぽらんな自分に、それがいったいできることだろうかという問いをはらんでこそ、この哀悼というのは成り立つのではないかということが、加藤さんの言い分ではないかと思うのです。 しかし、加藤さんはくだんの論争において、二千万のアジアの死者を犬死させるためにも、三百万の自国の死者を無駄死にさせなければならないという具合には論を立てることがありませんでした。ここには、一つ重大な問題が控えていると思われるのですが、それをいうならば、連合国の強大な権力を、抑圧し、検閲する権力一般の構造から免れないものととらえていたということにかかわります。広島、長崎への原爆投下と無条件降伏政策、さらにはGHQによる占領体制が、どのようにわが国の戦後を歪曲したかというモチーフから自由になっていないところがあるといっていいでしょうか。それは、江藤淳の戦後検閲批判にも通ずるモチーフといっていいので、江藤さんもまた、そのような強大な権力によって死者の贖われる道が閉ざされてしまったという主張をおこなったのでした。 加藤さんのいう、ホールデンのかけらのような抵抗、目の前に口を開ける奈落にか細いものとしてか細いままに通路をつけようとするその抵抗に意味がないはずはありません。しかし、そのためにはこの息絶え絶えのものたちを再生させようとする強大な力というものをも見据えていなければならない。ウィトゲンシュタインの論理空間に匹敵するような力、もっというならばドストエフスキーの大審問官に当たるような力への関心がなければならない。それこそが、連合国の強大な力にほかならない。 この力は、なるほど「ねじれ」をもたらし、臆面もなく対象を歪曲するものであるということができます。しかし、そこには二度にわたる世界戦争の悲惨を乗り越えて、二千万のアジアの死者も三百万の自国の死者も等しなみに哀悼しようとする思いがこめられたものであることもまた否定できないのです。これが、ルーズベルトや国務長官ハルをして、国際連合憲章の作成へとうながし、マッカーサーをして憲法九条の草案作りへとうながしたものといえます。そして彼らをうながしていたのが、第一次大戦の後に、民族自決主義を唱えるとともに国際連盟の設立にかかわったウィルソンの理念であり、そのような理念が、十八世紀におけるカントの永遠平和についての思想によってあとづけられるものであることもまちがいないことなのです。 問題は、カント的理想理念が、善と悪のアンチノミーを介してしか表明されえないものであり、それゆえに強大な権力として現前することを避けることができないということです。カントはこれを「人間は自分たちに協調性が欠けていること、たがいに妬み、争いを求める嫉妬心をそなえていること、決して満たされることのない所有欲に、ときには支配欲にかられていること」を感謝すべきであるという言い方で述べるのですが、そのようなパラドックスを通してしか語れない真実とは、いったい何なのかということを考えていくとき、そこにもまた、大審問官とイエスの対位に似た事態が起こっていることを否定できないといえます。この強大な権力は、みずからの理想を遂げようとして、なおかつ修復不可能な「ねじれ」をもたらし、事実を歪曲するということをおこなうのですが、一方において、無限に広がる奈落の「クレイジーな崖っぷち」で、ちゃらんぽらんなキャッチャーのようでありたいというホールデンのような存在に対して、「で、おまえがあれなのか? あれなのか? 答えなくともよい、黙っていなさい。第一、おまえに何が話せるという?」という、あの大審問官の言葉に似たものをもあたえつづけるのです。 (文芸批評) ――つづく |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||