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評者◆神山睦美
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にみえる圧倒的な現実の前に敗れ去った者たちへの想い
No.2999 ・ 2011年01月29日




 サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は、永遠のベストセラーなどと呼ばれて、いまでも若い世代を中心に読み継がれています。しかし、この、第二次大戦に一兵士として参戦した著者の戦争文学ともいうべき特異な作品を、本当に読むことができたのは、加藤典洋と村上春樹を介してでした。加藤さんの『敗戦後論』は、さまざまな物議をかもし、論争の種をまいた本ですが、なかでこのサリンジャーの小説に言及した一節には、どんな論議も跳ね返すしなやかさがあります。それは、加藤さんがこの本で唱えた、戦後におけるねじれの問題や三百万の死者の哀悼という問題を内側から支えるものということができます。それを一言でいうならば、そのような戦後責任という問題の先には必ず「奈落が口を開けている」ということにほかなりません。
 そのことを、まず加藤さんの引くサリンジャーの文字通りの戦争小説「最後の休暇の最後の一日」のなかの、主人公が父親に語る次のような言葉に象徴させてみましょう。「もう死者をして死者を葬らせるべきときだと思う」。出征を控えた若い主人公が、第一次大戦に参戦した父親の世代の人々の、ナイーヴすぎる戦争体験への向かい方に、疑問を投げかけた時の言葉なのですが、加藤さんはこれを別の翻訳を参照して「戦死者は無駄死にさせなければならない」という言葉に言い換えています。
 「無駄死」とはどういうことかというと、つまり戦争の死者の向こうには「奈落が口を開けている」ということなのです。だから、そのことについて言葉を費やしたとしても、まるで言葉たちは、ドアの向こうの奈落に次々に落下していくように、ほとんど意味をなさない。それにもかかわらず、ここに通路をつけるとするならば、この奈落の手前で言葉たちをキャッチする存在がいなければならない。そのような存在だけが、戦争の死者について語ることを、私たちにゆるすのだということです。
 村上春樹の翻訳によるサリンジャーの小説のタイトル『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、このキャッチする存在をあらかじめ示唆するものといえます。世の中のことが何もかも嫌で嫌でたまらない十六歳の主人公ホールデン・コールフィールドが、それでもたった一つだけ好きになれることがあるといって、妹のフィービーに打ち明けるのがこの「ライ麦畑のキャッチャー」になることなのでした。村上さんは、この小説が、一九四四年におけるドイツ軍との戦闘を一兵士として経験したサリンジャー自身の「個人的な『戦争小説』」にほかならないといいます。それは、「敷石の上に歯や血を飛び散らせて死んでいるジェームズ・キャッスルの死体の描写」にかぎりません。あの「ライ麦畑のキャッチャーだったら、なってもいい」という、ホールデンの言葉自体が、戦争という圧倒的な現実を前にして、敗れ去るほかなかった者への思いの底からあらわれたものといえるからです。
 サリンジャーは、まさに「戦死者は無駄死にさせなければならない」という言葉に実質をあたえようとして、「ライ麦畑のキャッチャー」という存在をうみだしたということができます。
 加藤さん、村上さんのサリンジャーに対する並々ならぬ思いは、さまざまなことを示唆してくれるのですが、たとえば、サリンジャーは、まるでウィトゲンシュタインの『哲学探究』の一節を暗誦したうえで、ホールデンに語らせたのではないかということまで思わせるところがあるのです。村上さんの訳で、例の一節を引いてみましょう。「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ」。
 野原でボールゲームに興じている子どもたちというのは、ウィトゲンシュタインのルールゲーム論にとって要になるようなイメージでした。ルールというのは、ゲームのなかで創られ、さらに、何度でも変更されるものにほかならない。そのまったく相対的なありようというのは、たとえば家のドアを開けようとして、ドアの向こうには「奈落が口を開けている」というようなことを指しているのだというのが、ウィトゲンシュタインの論旨なのでした。これをいいかえるならば、野原でボールゲームに興じている子供たちは、ボールを追って野の果てまで駆けてゆくあいだに、向こうに控える「クレイジーな崖っぷち」から次々に落下していきそうになる。そういう危険と背中合わせで、このボールゲームは、行われているということになります。
 ホールデンが、この子供たちをキャッチする役だったらやってもいいと言うのには、そのような寄る辺のないゲームを何とか成り立たせるための鎹のようなものでありたいと思っているからといえます。世の大人たちのまやかしに我慢のならないホールデンにとって、この世界を全否定することはわけのないことです。にもかかわらず、彼は世の中を呪詛したあげく、世界の滅びるのを待ち望むのではなく、遠いどこかのだだっ広いライ麦畑で、次々に子供たちが消えていくの食い止めるキャッチャーになりたいという。そのことによって、彼はか細いものがか細いままにこの世界にありつづけることを肯おうとしているのだといえます。
(文芸批評)
――つづく







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