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評者◆杉本真維子
プレハブの夢
No.2999 ・ 2011年01月29日




 日が暮れたころ、ときどき父の車に乗って、小さなプレハブ小屋で寝泊りしている「働かない人」を見にいった。さあ、ちょっと行こう、の誘い声で、宿題の手をとめ、自宅から少し離れた川原の近くまで出かけていく。助手席で後ろを振り返ると、もう暗闇がひろがり、私たちの後ろで何もかもが切れているようだった。
 父は、その人を「働かない人」とわかっていながら、彼のために冷暖房を備えたプレハブ小屋を建て、テレビや真新しい寝具を用意して、そこに住まわせた。というより、どういう経緯かはわからないが、勝手に連れてきた。「働かない人」のほうも、なんだかわからないけれど外で生活するよりはあったかいし、食事は出るし、ということで、とりあえず、そこに住んだようだ。
 かさかさと音の鳴る白いビニール袋が、父の手から垂れ下がっている。そこには食事の差し入れが入っていて、「Fさん、これよかったらどうぞ」と手渡すと、その人は「ああ、どうも」と軽く頭をさげた。砂利道を歩いて車に乗り込むまでの間、私たちは何も話さなかったが、走行中、「全然、働かないんだよね」と、父はそのことを、まるでよろこんでいるかのように、少し笑って言った。私のほうも、当たり前すぎて、変な笑いがもれる。そんなことは、始めからわかりきったことなのだ。
 国道から、遠くのプレハブ小屋をのぞいて、電気が点いているかどうかを、確認するだけの日もあった。不在の日もあれば、彼の動く影が映る日もあった。そのうち、電気が消えている日が続き、ついに「あーあ、いなくなっちゃったみたいだね」と父はまたしても笑いながら言った気がする。これまた当たり前なことに、「働かない人」は、そのうち退屈になって、どこかへ逃げていってしまうのだ。
 もちろん、家族のだれも、父のそんな謎めいた行動を理解する人はいなかった。うちだって経済的にそこまで余裕があったわけでもないのに、なぜ働く気の無い人に、お金をかけるのか。当時の私も、よくわからないまま父に連れられ、扉をノックするといつも寝起きの顔で出てくる「働かない人」に、挨拶をした覚えしかない。ただ、周囲に灯りひとつないところに煌々と電気の点いた小屋が建っている光景、その眩しいものが、車の走行とともに遠ざかっていくときの気持は、ふしぎな違和感として残った。
 おそらく父の動機は、外で寝泊りするのは寒いだろうから、という単純なものだったと思う。でもその感情を、頼まれてもいないのに行動にうつすということには、悪意と転倒しかねないぎりぎりの諧謔と、やさしさが、必然的に同居することになる。つまり、倫理的にはそうとう際どい行ないであったはずで、そのことも充分わかっていながら、父はそんな危うい「無駄」を、実行に移していた。
 その父のこころを、なぜか私だけが、理解していたようだ。そのことにはっきりと気づいたのは、十代のおわり辺りからで、その時期は、詩とのほんとうの意味での邂逅と、ぴったりと一致している。無意味であることなど気にしない、あるいは、無価値なことこそに価値を置く――いろいろな言い方ができるが、なんのために、という問いなんて一蹴してしまう「目的のなさ」は、私のこころをあたため、二人にしかわからない密かな笑いを、父とどれほど共有したかわからない。
 あのプレハブ小屋はとっくにないが、これを書いているうちに、私の夜に、光り輝く四角い箱が出てきた。一日中働かず、寝そべって菓子か何かをばりばりと食べていたあの人を、微かにうらやましい、と思ったことも、その箱のなかに、大切に入っていた。
(詩人)







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