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評者◆神山睦美
言葉が通じる/通じないということの根本に関わるある種の寄る辺なさのようなもの
No.2998 ・ 2011年01月22日




 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、主観と客観にまつわるいかなる二律背反も乗り越え、ニーチェが、権力への意志という言葉で語ったものを、事実の世界に実現しました。それは、内面に渦巻くルサンチマンを抑えうるかのような存在に絶対優位をあたえようとする権力とは似て非なるものです。ウィトゲンシュタインもニーチェも、そのような権力を解体するためには、一度は、内面というものを極限にいたるまで捨象しなければならないと考えました。しかし、内面の解体は、それを唱えた哲学者の側に大きなリアクションをもたらします。ニーチェが、進行性麻痺症という病名のもと、晩年のほとんどを精神病院で過ごさざるをえなくなったのには、相応の理由があったといわなければなりません。
 ウィトゲンシュタインもまた、みずからに襲いくる自殺衝動に耐えながら『論理哲学論考』の世界をどのように生き延びさせるかを考えていました。そして、その世界の生殺与奪の権を握っているのが、最も脆弱な受動的存在であり、その者による「犠牲による救済」であることに気がついたといえます。そのとき、これをたとえば、ドストエフスキーのように物語のなかの真実として、さらには、折口のように「神道宗教化」の理念としておもてにしていくのでないならば、どのような方法が可能かと考えたにちがいありません。「犠牲による救済」という言葉でいうしかない実存の課題を、芸術や宗教のそれとしてではなく、あくまでも哲学のそれとして語り出すとするならば、どのような語り口が成り立つかを考えたといってもいいでしょう。
 そこに、『論理哲学論考』から三十年を経て公刊された『哲学探究』が、意味をもってあらわれてくるということができます。『哲学探究』に収められたさまざまな思考、「言語ゲーム」や「家族的類似性」という言葉でいわれるものが、『論理哲学論考』で語られた記号論理空間とどんなにかけ離れているように見えようと、ウィトゲンシュタインからするならば、それとの対位をかたちづくるものとしてあるということができます。そう取るのでなければ、この「言語ゲーム」や「家族的類似性」について語るウィトゲンシュタインの、一種か細いような語りというものを解することができないのです。
 たとえば、『哲学探究』四章八十三節で、「人々が野原でボール遊びを楽しんでいる場面を例に挙げてみよう」としながら、こんなことが言われています。
 彼らは最初、サッカーとか、野球とかさまざまなボールゲームを始めるのだが、たいてい最後までやらずに、新たなゲームに興じ始めます。ボールを無計画に投げ上げ、ふざけながらボールを持ってお互いに追いかけ合いをし、ボールを投げつけ合いまでする。その様子を見ていた者が、彼らはその全時間を通してある一つのボールゲームをしているのであると言います。なぜなら、彼らは、ボールをいつどのように投げようとある一定のルールに従っているからであり、もし従うルールがなければ、ゲームをやりながらルールを創っていくからです。さらには、一度創ったルールを、ゲームの進行にともなって変更する場合すらあるといえます、と。
 この一節を読むたびに、こんな場面が思い浮かびます。野原でボールゲームに興じていた子供たちが、さまざまなゲームを楽しんだすえに、最後はボールを夕空高く投げ上げ、そのまま野の果てに転がっていくと、その様子を見届けるでもなく、三々五々家路についていく。子供たちは夕餉の灯りに魅入られるように去っていくのだが、あとには、夕闇濃くなった広い野原と見棄てられたボールが残されるだけといった場面です。実際には、そんな場面について一言も触れられていないのですが、ウィトゲンシュタインの語りは、そのような情景を思い起こさせるようにすすめられるといえばいいでしょうか。すると、ここにあるのはどういう事態かということになります。
 ウィトゲンシュタインの言っているのは、まちがいなくルールというのは、偶然性や主観性を排したところに、論理的な整合性をそなえたものとして成立するということなのです。『論理哲学論考』において完璧なまでに整合的な論理空間を提示してみせた彼にとって、規範的なものの本質が、人間の内面を極限まで切り捨てることによって現われるということは自明といえます。たとえば先に竹田青嗣の『人間の未来』に触れたとき、竹田さんの提唱する「純粋ルールゲーム」というのが、それに近いのではないかと述べたことがありました。もちろん、暴力を排することによって、メンバーの公平な権利を認め合うこのゲームが、たんに論理的な整合性によって成り立つのではないことはいうまでもありません。にもかかわらず、竹田さんの「純粋ルールゲーム」が、人間の内面に渦巻くルサンチマンを抑制しうるかのような力に対して、一定の距離をとっているところからも、ウィトゲンシュタインのいう整合的な論理規範に通ずるということができるのです。
 しかし、ウィトゲンシュタインが『哲学探究』で述べる「言語ゲーム」には、それにかぎらないものがみとめられます。ルールというのは、ゲームをしながら創られていくものであり、いったん創られたルールは何度でも変更されていくということ、いわば、規範というものがそなえている相対的なありようといったことがそれです。そのうえで、この相対性というのが、どこか希薄な、寄る辺なさといったものを印象づけずにいないということ。まるで、野原でボールゲームに興じていた子供たちが、三々五々家路についていくのに、なかの一人が、空高く放り上げられ、そのまま野の果てに転がっていくボールを追って野原の尽きるところへと駆けていく、そのすがたにも似た寄る辺なさといえばいいでしょうか。
 言葉が通じるとか通じないとかいうことの根本には、この寄る辺なさのようなものが関わっているというのが、『哲学探究』の隠されたモチーフといえます。実際、ウィトゲンシュタインは、ルールというものは、それに従う者の信憑があって成り立つのだが、この信憑は、ある人が、家のドアを開けようとして、ドアの向こうには奈落が口を開けているのではないかと疑わずにいられない、そういう疑いと紙一重のものなのだといった意味のことを述べます。家族的類似性ということだって、もはや整合的な論理規範では、言葉は通じないという前提のもとに編み出された概念なので、この家族どうしに見られる類似性の根にもまた、か細く希薄な寄る辺なさといったものが漂っているように思われるのです。
 それは、言語規範やルールゲームの本質的な相対性を示唆するものといえますが、それだけではありません。この寄る辺なさとは「犠牲による救済」という言葉にあらわされる、絶対受動の存在様式にほかならないのです。言語が普遍的な伝達機能をもつために身につける整合的な規範性が、言葉を使うすべての者に行き渡るためには、「純粋ルールゲーム」だけでは足りない。それを贈与として受け取るものがなければならない。ウィトゲンシュタインにとって、それこそが子供たちのか細いような寄る辺なさに象徴されるものにほかならなかったといえます。夕暮れ、ボールを追って野の果てまで駆けてゆく子供のその先には、「奈落が口を開けている」。だが、そこには、みずからは滅びることも辞せずにこれを救おうとする存在のイメージもまた焼き付けられている。そういっていいように思われるのです。
 言葉が、本当に通じるというのは、そのような贈与と対抗贈与による「言語ゲーム」においてではないでしょうか。
(文芸批評)
――つづく







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