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評者◆安藤礼二
作品を未来に開いておくこと――今まで誰も読んだことがないような読書の時空間を軽やかに切り拓きつつある多和田葉子
No.2997 ・ 2011年01月15日




 現代の文学は現代の演劇と、相互に切り離すことのできないくらい密接な関係を結んでいる。文芸誌に新たに登場する刺激的な書き手の多くが、演劇を自身の重要な表現手段としているという事実を述べたいのではない。問題はもう少し複雑である。優れた演出家がそのまま優れた小説家になれるわけではないし、逆もまたしかりである。そうではなく、一つの書かれたテクストを複数の身体、複数の声に担わせてしまうこと。作品を完成とはほど遠い状態、分散し、分裂させたまま放置してしまうこと。すなわち作品を未来に開いておくこと。それが、現代の文学空間においても、現代の演劇空間においても、ともに目指されている事態である。たとえば、二〇〇九年に刊行された大江健三郎の『水死』(講談社)の最終章直前、第十四章は「あらゆる手続きが演劇化される」と題されていた。
 大江は自己の作品も、近代日本文学史の起源に位置する重要な他者の作品(漱石の『こころ』)も演劇化してしまう。大江の場合、小説を演劇化するとは、小説を戯曲のように書くことではない。単数で語られる作品の言葉、単線的に伸びていく作品の時間を、複数の声、複数の時間に分散させてしまうのだ。「私」という権力を撓め、そこに男でも女でもない、中性的で、なおかつ多彩な声を響かせること。大江にそのような方法をとらせるきっかけとなったのが、おそらくは第二回大江健三郎賞を受賞した岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(新潮社)、特にそのなかでも舞台を小説化した「三月の5日間」ではなく、純粋に小説として書かれた作品「わたしの場所の複数」であろう。その岡田が、「性」を主題として書き上げた最新の短篇「耐えられるフラットさ」(新潮)もまた、現代の文学と現代の演劇が交錯する点について、さまざまなことを考えさせてくれる。
 耐えなければならない「フラットさ」とは、観客である「彼」が日常を送らざるを得ない生活の「平板さ」であり、「彼」が観ている舞台という「平面」で行われている、直接の性交を経ないで絶頂に達しなければならない、名前をもたない男女による演劇的な行為の「不毛さ」でもある。すべてがフラットになってしまった、そのような時空間で、「彼」は一体何を待ち望んでいるのか。岡田はこう記している――「つむられた目のところを界面としてその向こう側に広がっている、こちらと別世界みたいなもののほうへ、ここからくるりと裏返るようにして自分の存在すべてを運んでしまいたい、と」。演劇的な舞台の上で、現実をくるりと裏返してしまうこと。そのとき、物語的な秩序に従った時間も空間も、その意味を根底から変えてしまうであろう。そうした不可能な試みに挑み、今まで誰も読んだことがないような読書の時空間を軽やかに切り拓きつつあるのが、多和田葉子である。
 この一年、多和田の残した多様かつ多産な活動(小説、対談、朗読、舞台等々)には、ただ圧倒されるばかりである。それらのなかでも、「新潮」の十月号からスタートして、今月(十二月号)で完結を迎えた短期集中連載の長篇「雪の練習生」三部作――第一部「祖母の退化論」、第二部「死の接吻」、第三部「北極を想う日」――は、それぞれの各部においても、また全体としても、表現の実験性と完成度の高さによって、来たるべき新たな小説、およびその小説に書きつけられるべき未知の時空間の原型となっている。三部作は、祖母、母、子をめぐる時間の物語であり、人間とホッキョクグマをめぐる変身の物語である。ホッキョクグマの祖母が書き進める自伝のなかで、母と子の運命は転変する。そして動物園のサーカスという舞台で、調教されるホッキョクグマと調教する人間の役割はいつしか入れ替わってしまう。一瞬の「死の接吻」を通じて、双方がくるりと裏返ってしまったかのように。白く輝く毛皮をまとった美しい老女となった祖母は、子にこう告げる。
 「誰にも教わらないで、たった一人で舞台を作っている。しかも、めずらしいことをやってみせるだけではなく、普通に遊んでいて、それが面白く見えるように工夫している。これは新しい芸術かもしれない」……。独創的な舞台空間を構築し、そこで繰り広げられる未曾有の身体表現を、真剣な遊戯として組織し直すこと。多和田が「雪の練習生」三部作で確立することを目指した表現の境地を、意識的な若手の作家たちもまた、独自のかたちで追求しようとしている。荻世いをらの「筋肉のほとりで」(すばる)と木下古栗の「いい女 VS いい女」(群像)に今後の大きな可能性を感じた。荻世は「筋肉」を通して、男と女の自明な関係性、能動と受動の自明な関係性を解体し、再編成する。木下は、物語を「異質な咆哮の荒々しく噴出するワイルドな不協和音」に解体し、時間の流れに抗する、その場その場の「もっと根本的に筋の通らない、というか筋なんてない話」として再提示する。崩壊と紙一重の創造への道が、この二作には通じていると思う。
(文芸批評)







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