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評者◆神山睦美
いかにすればすべてを論理空間へと嵌め込んでいく力に対峙することができるかを考察したウィトゲンシュタイン
No.2997 ・ 2011年01月15日




 『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』に、「犠牲による救済とは、私たち全員がしたいと思いながらもできないことを彼がなした、ということかもしれない」という言葉があります。ウィトゲンシュタインといえば、第一次世界大戦にオーストリアの志願兵として参戦し、塹壕のなかで『論理哲学論考』を完成したという逸話のある哲学者です。ラッセルによって二十世紀の哲学の重大事件と評されたこの書の完成後、公の場から身を隠すようにしてオーストリア山村の小中学校の教師に赴任します。この日記の言葉は、そのようなウィトゲンシュタインの自己追放ともいうべき生き方を象徴するものといえます。そこでいわれている「彼」とはもちろんイエスのことですが、ここには、世界を画するような思考を提示する存在が、みずからの実存をいかにしてそこに内在させうるかという問いに対する、典型的な回答が見られます。
 ドストエフスキーの大審問官の物語でも折口の天皇論においても、最も強力な権力を身に付けた存在と、絶対受動というありかたで権力からの贈与を受ける者との対位が描かれていました。ウィトゲンシュタインにおいても例外ではありません。『日記』の記述が、悩める青年の手記といった体裁をとっていることに惑わされてはいけないので、そこで「彼がなした」とされている「犠牲による救済」とは、まさに絶対受動的存在による対抗贈与にほかならないものなのです。では、ウィトゲンシュタインにとって、ドストエフスキーの大審問官や折口の天皇に当たる存在とは何でしょうか。『論理哲学論考』において考察されたトートロジーとしての論理そのもの、それこそが、事実の世界を司る強力な権力といっていいものなのです。
 ウィトゲンシュタインによれば、この世界のすべての事象は「要素命題」の複合的組み合わせによって成り立ちます。そのことを明らかにするのは、記号論理としての言語のシステムにほかなりません。言語を単位記号にまで還元するこの論理空間は、いかなる複雑な現実をも、一つの論理体系として説明します。それは、一方において、人間の主体的表現や内面の表出というものを徹底して排除します。そのことによって、この世界の事実は、決定論的な空間に対応するかぎりにおいて存在しうるということを明らかにするのです。そして、現実を一義的論理システムとして表象するこの記号論理こそ、強力な力の源となるものなのです。
 もちろん世界の諸対象が、事実の総体をかたちづくるのは、それらが、様々に関係しあうことによってといえます。だが、その仕方にみられる自立性とは、ある決定的な事態にはめ込まれた非自立性にほかなりません。事実の総体は、その場に起こることを規定していると同時に、その場に起こらないことをも規定しているからです。ウィトゲンシュタインは、そのように考えることによって、事態の偶然性や現実の多様性を徹底的に排除していきました。同時に、人間の内面や意志や情熱といったものをも、リミットまで切り捨てていったのです。そこに現われる論理空間とは、客観世界や整合的な体系を超え出たところに現れるゼロ記号であり、合理主義的な世界観によっては根拠づけることのできない過剰な力にほかなりません。
 それは、ポトラッチやマナのようにといっていいでしょうか、人間の内面にうごめく欲望や恐怖、虚栄や我執を実体とみなし、これを統御しうる者に最大の価値をおこうとする力を次々に瓦解させます。そのことによって、事物の世界に整合的な体系を築き上げる合理主義的な世界理念を解体するのです。それは、人間の内面に対して、抑制と統御を最大限になしえた者が、すべてに対して優位に立つという世界観を失効させるということでもあります。こうしてウィトゲンシュタインの論理空間は、事物の世界と事実の世界の転回ともいうべきものを成し遂げていきます。 
 しかし、ウィトゲンシュタインにとって、問題はそのような最強の論理空間が、その力を贈与する対象をどこに見い出すかというところにあったといえます。『論理哲学論考』のさまざまな命題が、「語りえないものについては沈黙しなければならない」という命題へと収斂されていくとき、この沈黙するものこそ、絶対受動という存在様式において、この論理空間に対位するものであることが明らかにされます。そこに、「犠牲による救済」が見い出されたといっても過言ではありません。
 もちろん、それは、事実の世界に拘束されてある「私たち全員がしたいと思いながらもできないこと」です。しかし「彼」だけはそれをなした。なぜなら、この「彼」は大審問官の前に無言でうずくまるその人のように、いかにすれば、すべてを論理空間へと嵌め込んでいく力に対峙することができるか、そしてそこからもたらされる過剰な贈与に対して、どのような対抗贈与が可能かを推し測っているからなのです。
(文芸批評)
――つづく







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