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評者◆小野沢稔彦
ワンカットに漲る、ぬきさしならぬ緊張感――ミヒャエル・ハネケ監督『白いリボン』
No.2994 ・ 2010年12月18日




 人間存在の深淵に――勿論それは、社会的関係性に深く規定されているのだけれど――限りなく下降し、その内実に迫ろうとする壮大な映画の物語と接することができた。ミヒャエル・ハネケ監督・脚本作品『白いリボン』である。改めて言うまでもないが、映画という物語はその運動性として、この世界の表層に生起する出来事と、それを包みこむ風景を「切り撮る」ことによって成立するのだが、この映画的表象の特色にまったく無知な映画が横行する現在にあって、『白いリボン』はきわめて原則的に、映画の物語そのものの裡に、映画でしか表現しようのない、ぬきさしならない映画の現実として、私たちの前に生起しているのである。
 映画は正面から問うだろう。私たちのこの世界を構成しているかに見える、労働=家族=国家という不変と思われている原理、そしてこの三位一体性を根底で支える宗教(=教育)――この映画の場合は、近代資本主義の精神たるプロテスタンティズム――によって呪縛された、近代的人間性とその全ての関係性を。この社会で営まれる、自明のものとされる生活、社会的関係性、更に性的抑圧によって規定される心性が、いかに育まれ、いかに生成し、更なる抑圧となって――人々は自由だと信じ、神への感謝を忘れることはない――人々のあり様の全てを圧倒的に呪縛する、その全体性が正面から問い直される。
 そこでは平安に満ちた社会の底に闇がわだかまり、人々の感謝の祈りの奥に異様な性の衝動が露出し、科学的教育体系の深部に解明できぬ魔の領域が存在し、そうした不可解な事象(=人々の心象でもある)が、不変と思われる共同体の奥底に忍び込んだ危機――しかし、危機として人々に認識されることはなく、あくまでも表層に露出した奇怪な現象である――となって、くらしの中に現象し、決定的に露出し、村人を不安へと駆り立てる――西欧的モラルを生きる人々が秘める悪意、暴力、嘘、欺瞞……、それは一見、無垢な存在性の背後にも粘着している。そしてこの怪異な情況の下で、一方で強固な原理主義は躍動し、共同体の制度的紐帯をより強固に作動させ、人々を体制へと強制する。永遠に続くと思われる共同体の内部では、奇怪な現象は、その内実を追求されることは、決してない。そして、怪異は次々と起こるのだ。映画は、このように形成されてある西欧近代そのものと、その存在性の全てとを、鮮明なアレゴリーの形態をとって根底から問うだろう。『白いリボン』は、西欧そのものの基層に向き合う重くかつ壮大な映画という物語として、私たちの前に提出される。しかし、表立って共同体に大文字の事件が起こるわけではない。あくまで美しい村は、不変のままにあり、静かなくらしは永遠に持続するかのようであるが、その光景の闇の裡で人々の心象は崩れ始め、やがて来る大文字の事件を予告するだろう。
 私は、この映画に西欧近代社会の意識の崩壊の現実を見るが、そのことを成立させるのは、この崩壊を歴史=物語として再構成しようとする明確な方法意識によっていることをも確認しておくべきかと思う。つまり批判の運動性のことであり、それは西欧における危機の表象たる〈知〉の成果が与っているのである。ここには最新の歴史学の方法、フロイトの精神分析、言語哲学や批判の哲学、そしてシュルレアリスム以降の様々な表現方法などが縦横に活かされ、西欧近代の精神の暗部に生起する危機の様相が、きわめて重層的に読み解かれていくのだ。この場合、読み解かれるとは、物語として再構成されることであり、そのことによって、不可解な現象の裡にアレゴリックに人々の心象が浮上するのであって、決してロジックで語られるのではない。そして、その不可解なる事象とは近代の宿痾そのものであることが、実に丹念に描写され、モノクロ(カラー撮影からの脱色であり、この風景描写は観る者を、光景の奥にある関係世界へと誘引する)画面の持つ深い思索性を前提とするワンカットワンカットの衝迫力によって――そして抑制された音の豊かさ、つまり沈黙という圧倒的な音――、この世界の闇と人間存在の深淵とがのぞかれるのである。
 ミュンヘンで生まれ、ウィーンで教育を受けたハネケにとって、フロイトや幻想芸術の方法はほとんど肉体化されてあるだろうが、しかし、そのワンカットワンカットのあり様は、一見、リアリズムに規定づけられているようであり――特にその細部描写――、そのことによってまさに二〇世紀前半(一九一三~一四年)のドイツ北部の田舎のくらしとその光景とが的確に描き出され、表面的にはその奥に秘められた亀裂など、ここには存在しないかのようである。しかし、その表層表現の的確さによってこそ、暗く重い現実の闇が、カットの表層性を超えて紛れもない現実として露出する。こうして私たちは、宗教的道徳意識に支えられた、労働=家族=国家の神話に根ざした自明の世界性(表層)の崩壊の幻想を追体験することになる。つまり、表層の先にハネケによって剔抉され、仕組まれた危機の不穏さを体験することになるのである。そのワンカットワンカットの力が(風景の描写においても)、実は不可視の闇を浮上させ、西欧近代の基層に開いた存在の深淵を開示し、その幻想はやがて、第一次大戦への熱狂となり、その後のナチズムとして、明確な世俗宗教となって現前することになるだろう。そしてこの映画では、世俗宗教として明確な像を結ぶ直前のウルファシズム情況を、西欧近代社会が内包する不可思議な事象の裡に見つめるのである。この不可解な闇は第一次大戦直前のドイツの共同体を覆い、この映画全体を覆っている。
 映画は、そこに生きる全ての人間が「ファシズムの大衆心理」(W・ライヒ)へと向かう、その情動の具体性を浮上させる。特に密封された性関係の裡で抑圧された性エネルギーが――本来、それが秘めているはずの階層性突破の侵犯性とは逆に――制度的秩序の前に逆転し、より強固に表層の秩序を糊塗することになることをも的確に告知する。このようなファシズムの大衆心理が、労働=家族=国家の虚構を現実のものとすることを『白いリボン』は、この現実の時空を生きる私たちのあり様として、私たちの前に提起する。ワンカットに漲る、ぬきさしならぬ緊張感。ここには映画の力が確かにある。改めて映画の持つ力を、この『白いリボン』によって感得してほしいと思う。
(プロデューサー)
『白いリボン』は、12月4日より銀座テアトルシネマにて公開中、他全国順次公開。
公式HP=http://www.shiroi‐ribon.com







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