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評者◆秋竜山
原節子賛江、の巻
No.2994 ・ 2010年12月18日
貴田庄『原節子 あるがままに生きて』(朝日文庫、本体六八〇円)を読む。原節子といえば、あの原節子である。伝説の美人女優だ。私は、原節子について何も知らないことを知った。知っているといえば、小津安二郎監督作品に出演している原節子だけではないか。それも、ビデオでみてだ。もし、ビデオがなかったら、一本もみずに終わってしまっただろう。これは、原節子に限らない。あらゆる昔の女優(私にしてみての昔の女優)に、いえることである。「アア……、みたかった」と、悔やむ。もう、みることはできないだろう。原節子が小津安二郎監督だけの作品の女優でないことはわかるが、本書の〈原節子出演映画(作品タイトル、製作会社、監督、封切年月日)〉での、出演作数に驚いてしまった。「これは、ハンパじゃない」と、思ってしまった。数えてみた。一〇八本。
〈原節子の出演映画をまとめるにあたっては、主に、千葉伸夫「原節子 伝説の女優」、本地陽彦「原節子「永遠の処女」伝説」、佐藤忠男監修「永遠のマドンナ 原節子のすべて」、「日本映画作品辞典 戦前篇」、「日本映画作品辞典 戦後篇」、「日本映画俳優全集 女優編」、「キネマ旬報別冊 日本映画作品大鑑7」、「キネマ旬報増刊 日本映画戦後18年総目録」、「映畫読本 小津安二郎」、「映畫読本 成瀬巳喜男」、「フィルムセンター所蔵映画目録 日本劇映画 2000」を参考にしました。〉(本書より)とある。これだけの本数に出演するということは、これだけの本数の映画をその時代、封切りされるとファンはみているということになるのである。原節子と共に(年齢的に)歩んできた人たちは、リアルタイムで観劇していたのだろう。〈「ためらふ勿れ若人よ」日活、田口哲、一九三五年八月十五日〉が、彼女のデビュー作ということになる。 〈残念ながら、この作品のフィルムは残っていないので、原がどのような初々しい演技をしたのかわかりません。映画の内容は旧制中学生と女学生の淡い恋愛を描いたもので、彼女の役は文房具屋を営む母と暮らす女学生〉(本書より) 十五歳になったばかりの原節子の初めての映画だったのだ。最後の作品は〈「忠臣蔵 花の巻 雪の巻」東宝、稲垣浩、一九六二年十一月三日〉と、なるようだ。私が原節子を初めてスクリーンでみたのは〈「ノンちゃん雲に乗る」新東宝、倉田文人、一九五五年六月七日〉(本書より)であるから、原節子が映画界から去る六、七年前ということになる。彼女が娘役ではなく、母親役であったのだ。美人のお母さんということになる。たしか、学校の巡回映画であったと思う。原節子がいいなァ!! なんて、いい出したのは小津作品だけの原節子ということになる。終わりの方の作品だ。〈「わが青春に悔なし」東宝、黒澤明、一九四六年十月二十九日〉なんてのもある。「東京物語」は彼女の代表作ということになるのだろうが、〈「東京物語」松竹、小津安二郎、一九五三年十一月三日〉。ビデオで何回みても「味わいのある作品だなァ……」と思っていた。というのも、そのビデオのカセットがカビがはえて、みれなくなってしまった。映画にカビがはえたのではなく、ビデオの……で、ある。 |
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