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評者◆志村有弘
映像化したい作品の数々――心温まる時代小説(小吹磯世「見返り橋(かや編)」『じゅん文学』)、異常な状況設定と悲劇(黒木一於「死体を売る家」『コスモス文学』)
No.2994 ・ 2010年12月18日
映画やテレビ、演劇など、そうした分野でも利用できる作品がいくつかあった。それだけ、感動的な作品があったということである。
まず、小吹磯世の時代小説「見返り橋(かや編)」(じゅん文学第65号)。舞台は三河。かやは種籾を買う銭と引き換えに姉と共に売られた。だが、まだ幼いために出生を偽り大野屋の下女として勤めることになった。姉は苦界に身を落とした。かやはやがて仁平と恋をし、大野屋や大番頭のはからいで仁平の妻となった。仁平は心ならずも一揆に荷担し囚われの身となったが、恩赦ののち百姓代となる。登場人物それぞれが心優しく、名前の通り仁に生きる仁平の行動が心地好い。人情味豊かな、時に笑いに富む場面を挿入し、映画化、テレビ化をすれば、多くの人の心に残る作品となると思う。会話にカギ括弧を使わないのも、抒情豊かな作品に仕上げている。 黒木一於の時代小説「死体を売る家」(コスモス文学第377号)も映像化したい作品。病気の母を抱える貧しい旗本浅見蔵人が医師から生肝が妙薬で、首切り人山田浅右衛門が死体を貯蔵していると聞かされる。番随院長兵衛から金を貰い、山田の内室から死体を受け取ったけれど、内臓を取り出す作業をしているうちに母は自害してしまう。歴史の説明が常識内だが、異常な状況設定と共に最後まで読ませる筆力に敬服。浅右衛門が一度も顔を出さないのも一趣向というべきか。 水島馨の「大納言の君」(作家第72号)は女盗賊の物語。『今昔物語集』と『古今著聞集』を材とする王朝物。検非違使別当四条隆房家の女房が実は盗賊であったという著名な説話を踏まえたもの。しかし、原話を離れて創作をふんだんに加え、独自の世界を作り得ている。歴史小説では、「九州文學」第533号に西津弘美の、織田信長に槍をつけたという安田作兵衛の生涯を綴る「流転の槍」、西田英樹の、黒田官兵衛の宇都宮鎮房暗殺を描く「謀殺」が掲載されており、両作品とも力作である。 赤星イチローの「九州相良永国寺幽霊物語」(雑木囃子第11号)は、熊本の永国寺にある掛け軸に描かれた幽霊との対話を綴る。幽霊のおさよは平家の末裔で南北朝時代の人という。おさよは奉公先の主人の子をみごもり、投身自殺して幽霊となった。主人の妻がおさよの成仏を祈って絵姿の掛け軸を作った。和尚の教化により一度は成仏するものの、自分を苦しめた主人に復讐するために幽霊となって戻ってきた。題名ほどの仰々しい内容ではないものの、おさよと太郎との軽妙な会話、おさよが太郎の高校時代の初恋の女学生に似ているという一節がほほえましい。 岡野陽子の「化物の腹のなか」(文藝軌道第13号)は、ミステリー仕立ての作品。囲碁教室の講師をしている父と妹が交通事故で他界し、私(高校三年)は母と二人で暮らすことになった。母は御石様なるものを信仰し、遂には家に帰ってこなくなる。貯金通帳もなくなっており、自分の通帳の残高もほとんどなくなっていた。御石様に母が「入室」したとはどういうことなのか、私はこれからどのように生きて、どのように「霧の化物」に立ち向かってゆくのか、そうしたことも気にかかる。現実味に欠ける面もあるけれど、人間存在の深淵を覗かされる不気味さがある。 江口宣の「モヘンジョ・ダロ文書」(九州文學第533号)が読み応えがあった。インダス文字の解読をすることになった無名の言語学者の悪戦苦闘を長崎の核爆弾投下を背景とした三回連載の第一回目。果たして解読できるのかどうか、興味津々というところ。 紺野夏子の「石の家」(南風第28号)の女主人公は外国で夫を爆弾テロで死なせ、そのあと、夫の上司や神経科医との交流を通して、性に悩む男の相手をする仕事を思いつく。末尾で女主人公が自分の未来を見据え「老いた元娼婦」と記しているのが印象的だ。内容は極端な事例であるが、女主人公の行動に極端さを感じさせない、抑えた描写力が見事である。 詩では、各務章の「井戸水」「地の果て」(異神第108号)が、透明な詩境の中に昔・今・未来を歌いあげている。この詩人の原郷は「母」と「ふるさと」であるらしい。島田陽子の「ねこまち」(叢生第170号)は、金子みすゞと萩原朔太郎の詩を踏まえて、不安定な心象を詠んだものか、不気味な感覚の世界を綴る。 短歌では岡貴子の「虹のふるさと」(THE TANKA 開放区第89号)と題する「ワタシこそやまとの山姥くもを越え国越え鬼のふるさとさがす」が開き直った面白さ。石田富一の「おきなぐさ」(レーベ第28号)と題する「消極になお消極に生きていて心は寒くおきどころなし」の歌に自分を重ね合わせて身につまされる。そして、瀬黒良三(故人)の「あまりにも進行遅き肝臓癌に定まらぬ覚悟また持て余す」(新アララギ第154号)が辛く、肺腑を抉られる。 「季」第93号が備前芳子、「九州文學」第533号が堀勇蔵、「新現実」第106号が森慶文の追悼号(含訃報)。ご冥福をお祈りしたい。 (八洲学園大学客員教授) |
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