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評者◆添田馨
詩を語るとはどういうことなのか――倉橋健一著『詩が円熟するとき――詩的60年代還流』(本体二八〇〇円、思潮社)
No.2994 ・ 2010年12月18日




 倉橋健一『詩が円熟するとき――詩的60年代還流』(本体二八〇〇円、思潮社)を読んで、なぜか私は突然の眩暈に襲われたような、高揚と不安とが激しく入り混じる、そんな気持ちに捉えられた。詩の凄さに初めて出会った当初の、あの震えるような所在無さが、私のなかに甦ってきたのである。詩を語るとはどういうことなのか――私なども永年テーマとしてきた問題の、ひとつの答えがこの本にはあるように思えた。
 サブタイトルが示すように、本書は、著者自らもそこを同時代として駆け抜けた六〇年代から七〇年代にいたる時代の「口語自由律の詩」――いわゆる“現代詩”――を担った多くの詩人やその作品を、自分の体感温度で親密に語ったものである。その決して能弁とは言えない語り口のなかに、明らかに現在においても生き続けている詩の生命力のようなものを感じたのだ。
「一九六〇年の反安保闘争の騒擾も六〇年代末の大学闘争も、どこかで詩が火付け人であったような、つまりまぎれもなく時代の知的感性を惹きつけた、挑発者の役割を詩が引き受けていたような気がする」――冒頭で倉橋はこう述べているが、私も同感だ。さらに、こうした「詩」が口語自由律で書かれた事実については、それが「読み手の自発性を誘い出す条件」でもあったからではないか、と書く。本書が単なる過去の回想録たる地平を超え出るのも、こうした新鮮な視点が切りひらく、戦後詩の流れの新たな眺望においてである。マクロな視点とミクロな視点の激しい交錯のなかに、時代の感性と詩人の個性、政治状況と文学状況といった攪乱要素が何重にも織り込まれて、それはさながら詩人の記憶の糸で編まれた記録映像のようでもある。
 詩を語る、それも本質的に語るというのは、恐らくこういうことなのだ。本書にはそれこそ戦後から七〇年代にかけての現代の詩の秀作が数多く引用されている。私にもお馴染みの作品ばかりだ。にもかかわらず、それらは本文中で何と新鮮に輝いていることか。ほんの一例だが、佐々木幹郎の「死者の鞭」の数行は、部分引用であるにもかかわらず、研ぎ澄まされた言葉の刃で私に切りつけることを現に止めないのである。
(詩人・批評家)







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