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評者◆神山睦美
大嘗祭から窺い知ることのできる天皇と「襤褸の人」の共通点
No.2993 ・ 2010年12月11日




 昭和天皇が崩御した際、大嘗祭をどのように執り行うのかが論議されたのは、記憶に新しいところです。象徴天皇としての役割上、儀式の簡素化も提案されたのではなかったかと思われますが、結局、宮内庁側はこれを退け、皇室典範に定められた様式をそのまま踏襲することになりました。大嘗祭は、即位の礼とともに滞りなく行われ、今上天皇が平成の世に君臨することになったのです。私など、この儀式に多大な興味を抱いていた者には、折口の「大嘗祭の本義」に描かれたと同様の手順を踏んで進められていくのには、驚きを禁じえませんでした。
 そこにおいて折口は、天皇が天皇となるための条件を、霊的な力を身につけることと定義しています。これが、ミコトモチ論に依拠することはいうまでもありません。興味深いのは、大嘗祭の儀式を日本書紀をはじめさまざまな文献を参照することによって、詳細に説いていきながら、最終的には天皇霊を天照大御神から授かるにあたって、稲穂を食し、真床襲衾に服すことになるという点を説くくだりです。その場面は、決して覗き見ることのできない禁制といっていいものなのですが、折口の筆にかかると、傍らでその一部始終を見てきたかのような臨場感が感じられるのです。たとえば「大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちゃんと御寝所が設けられてあって、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備えられてある」といった叙述など、よほどの信憑がなければなしえないものといえます。
 この場面については、天皇が神の霊を授かる巫女として、性的なものを身に帯びる儀式とする見方もあるようですが、食指が動きません。むしろ、決して広くはない悠紀殿・主基殿において布を身にまとい横臥する天皇のすがたが、「魂の容れ物」というに相応しい空虚さを印象づけるというところに引かれるものを感じます。もし儀式にまつわるすべてを剥ぎ取ることができるとするならば、そこに存在するのは、いかなる理由によってか、閉ざされた空間に身一つで投げ出され、寒さに震えている者のイメージです。彼のもとに、一椀の粥と一枚の毛布があたえられ、ようやくのことで一夜を明かすことができる。しかし、その最も脆弱なありようを強いられ、そのことを甘んじて受け容れているからこそ、神の霊はそのもとにやってくることができる。折口は、このような存在の仕方に対して、ほとんど確信を抱いていました。折口の信憑とは、それだったといっていいように思われるのです。
 この信憑は、イヴァンに大審問官の物語を語らせたドストエフスキーにも同じようにみとめられるものです。セビリアの町を通り過ぎようとしたとき、たまたま幼くしてみまかった少女の葬列に出くわしたばかりに、奇跡を起こさずにいられなくなった襤褸の人。マレビトのように不意にやってきて、最も不幸な存在を寿ぐことをおこなったその人こそが、囚われの身となって、身一つで投げ出され、寒さに震える者となるのです。その彼に、一片のパンと一枚の毛布があたえられ、ようやくのことで一夜を明かそうとするとき、獄舎に通じる階段を下りてくるのは、神の霊ならぬ大審問官その人にほかなりません。折口は、まるでそのような存在を思い描いているかのように、威力の根源である魂が外からやってきて、この者に付くのであるといいます。それは、「西洋で謂う処のまなあである」というのですが、たとえば、安藤さんの折口天皇像は、このマナの憑いた存在の仕方に天皇のあるべきすがたを見るというものといえます。
(文芸批評)
――つづく







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