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評者◆高橋宏幸
子供とコドモ――今までとは違った作品と流通のあり方が生まれている児童演劇から
No.2992 ・ 2010年12月04日
演劇業界はタコツボ化している、と言われてから久しい。現代演劇に限っても世代別に階層化されているのだから、古典芸能や大衆演劇、商業演劇などとの区分けを考えると、その深度はさらに根深い。それは観客層の分化として顕著に表われている。しかし、九〇年代から現われた公共劇場の役割は、様々な面で演劇業界の構造を変えている。
たとえば児童演劇において。児童演劇は老舗の劇団がいくつもあり、旧来のネットワークが確固としてある。だが、公共劇場が自主企画で作品を作り、他の劇場と共同で作品をまわし、海外から質の高い作品を招聘するなど、今までとは違った作品と流通のあり方が生まれている。 実際、児童演劇という枠をはずしても座・高円寺という劇場が製作した『旅とあいつとお姫さま』は、佳作であり今年も再演された。また、「世界をみよう!」という児童演劇のフェスティバルも行われ、海外の優れた作品が上演された。それらは、われわれがもつ児童演劇のイメージを覆している。おそらく、大多数の人にとって児童演劇とは、子供が観るための演劇であり、教養的ないし道徳的なものというイメージがつきまとう。その源泉は、学校教育の際に巡回された児童演劇を一度や二度は目にしているからだろう。もちろん、そこに不幸な出会いしかなかったとは言わないが、かつての記憶はこれらの作品を見ると全く違ったものになる。 たとえば、このフェスティバルの一つとして上演されたデンマークの人形劇の『箱とジョージさん』は本当にシンプルな話なのだが、だからこそ、そこには考えさせられる要素がある。いくつもの箱が床から現われて、さまざまな動きをしてジョージさんと戯れる。でも、いずれすべての箱は消えて、ジョージさんはひとりぼっちになってしまう。だが、彼がいる場所自体が、まるで大きな箱の上であったようにして舞台は終わる。ただそれだけなのだが、ジョージさんと現われて消えた箱は、まるで世界と我々の関係を表わしているようだ。世界は我々の思いとはまったく別に存在している。それは、無関係であるからこそ寂しさを伴う。箱も、たまたま現われては消えていく。しかし、最後に箱の上にジョージさんがいたように、同時に我々は世界に間違いなく包まれている。だからこそ切ないのだが、そこに救いや希望をみたり、様々な読み込みをしてしまうのも、作品が言葉もなくシンプルに作られているからだ。 他に、池袋の東京芸術劇場でも児童演劇のフェスティバルは行われた。その一つであるカナダの『ひつじ』という作品は、劇場ではなく劇場前の広場の開放された空間で上演された。ひつじの着ぐるみを着た数人とひつじ飼いが、囲いの中とその周辺でリアルにひつじの生態を再現する。それは動物とはなにかを考えさせる。実際、そこでひつじは乳を出したり糞をしたりと、動物という生々しい存在として、かわいらしさと同時に怖さも見せる。人間がリアルに演ずることによって、人間もまた動物の一つであり、動物という理解できない他者であることを改めて認識させるのだ。もちろん、児童演劇という括りでは、まわりではしゃいでいる子供たちへも大人の視線は向くだろう。それは子供をどのように認識していたのかを再確認させる。 これら一時間に満たないパフォーマンスが、様々な示唆を与えるのも、子供を連れてくるのは大人であり、子供だけの演劇を作っていないことが前提としてあるからだ。子供と同時に大人も対等に観て、その作品のなかで行われていたことに対して、なにが起こっていたのか話し合えること。それは、子供という認識自体が、社会が作ったシステムであり、可変することを示している。 同時期に東京芸術劇場のホールで上演されていた若手演劇の有望株と思われている快快がタイの演劇グループと共同で作った作品と対比すると、子供とはなにかがより明瞭になる。彼らはあえてだろうが、幼稚であることを強みにするコドモ身体でありコドモの演劇だ。コドモというものを意識的に纏い、バカという振舞いをあえてする。それはあくまで大人がコドモというものを捏造しているからだ。しかし、先に述べたように子供は大人にとってもわからない他者としてある。少なくとも、コドモであることを強みにするのか、子供という常態化される現象を異化する演劇のどちらに未来があるのか。その行く先を示唆した演劇がそこにあったといえるだろう。 (舞台批評) |
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