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評者◆神山睦美
三島由紀夫に欠如していた、一人の人間の不幸の特殊性に対する共苦
No.2989 ・ 2010年11月13日




 このところ、同年代の書き手の訃報に接することが多くなってきました。小阪修平や立松和平といった、全共闘世代を象徴するような書き手はもちろんのこと、河野裕子といったどちらかというとその伴走者といった方までが、先立っていくのを見送るのは、何とも空しいものがあります。なかでも、折口信夫の研究においてユニークな視点を提示していた中村生雄の死は、大きな衝撃でした。
 九五年に公刊された『折口信夫の戦後天皇論』は、安藤さんの『神々の闘争 折口信夫論』に先駆けて折口の「神道宗教化の意義」に注目したものといえます。その論文のタイトルが「日本神道の〈対抗宗教改革〉プラン」といいますから、中村さんのなかに「存在しない神に祈る」という否定神学的モチーフが生きていたことはまちがいありません。そのうえで、中村さんの論の独自な点を挙げるならば、キリスト教でいえば預言者としてのイザヤ、エレミヤ、メシアとしてのイエスに当たる存在を、天皇のありかたをめぐって考察したところにあります。
 これはまさに、私たちの世代の特徴的な発想といってよく、日本の戦後を天皇の人間宣言で終わらせることなく、国家と宗教についての考察を持続的に進めていくことで、さまざまなことが明らかにされなければならないとする見方といっていいでしょう。中村さんの論だけでなく、そこから天皇および天皇制をめぐっての論議がなされ、その一つ一つに影響を受けてきたのでした。しかし、先に土着情況論者の日本的ナショナリズム論について述べたように、その大半が、戦後における高度経済成長とその結果もたらされた中流社会現象に対する満たされない思いを、天皇の存在に投影したものにすぎないということも否定できないところです。
 三島由紀夫の『英霊の聲』や『文化防衛論』において描かれた天皇像などは、その典型といっていいでしょう。三島のなかに仕舞われてある否定神学的モチーフが、戦後社会を神々の喪失と受け取ることによって、存在しない神を希求し続けるというかたちをとっているため、なかなかそのように受け取れない面がありました。しかし、中村さんのように、天皇および天皇制を、折口の言う「自覚者」や「義人」という存在と切り離すことのできないものとみなすならば、三島に見られるような、戦後社会に対する怨望の表明としての天皇像とは、相容れないものであることが分かります。日本ナショナリズム論者はもちろんのこと、三島由紀夫にも欠如しているのは、みずからは滅びることも辞せずにこの世を救おうとする存在についての思いです。そういう存在を迎えることのできる「自覚者」についての思いにほかならないといってもいいでしょう。
 知られているように一九七〇年自衛隊市ヶ谷駐屯地において、憲法改正と自衛隊の決起を唱えた三島由紀夫は、クーデター計画の挫折をもって割腹自殺を遂げるのですが、その死を、文学的英才の喪失として惜しむことはできても、「義人」の死と受け取ることはできません。三島のなかにも、彼の残した作品のなかにも、大審問官の言葉に無言で対したイエスのイメージをさがしもとめることはできないといえばいいでしょうか。アレントが、イエスのなかにみとめた、一人の人間の不幸の特殊性に対する共苦が、三島には欠如しているといってもいいでしょう。彼を動かしていたのは、絶対的多数の群衆の際限ない苦悩へのセンチメント同情だったといっては言い過ぎになりますが、すくなくとも「などてすめろぎは人間となりたまひし」という『英霊の聲』の怨嗟の言葉からは、メシアとしてのイエスの面影を汲み取ることはできないのです。
(文芸批評)







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