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評者◆秋竜山
悲哀と快感、の巻
No.2987 ・ 2010年10月30日




 竹内整一『「かなしみ」の哲学――日本精神史の源をさぐる』(NHKブックス、本体九七〇円)を、読む。そして、「そーいえば……」と、昔のことを思い出す。あんなに、かなしい映画なのに、村にやってくる巡回映画。三益愛子の母物に子供心に泣いた。泣きたくて映画を観て泣き満足したのだった。
 〈「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(西田幾多郎)、「わずかにこの哀感の力にて我が心は幽かながらも永遠の命の俤に触れ得るなり」(国木田独歩)、「かなしきことを、かなしむまじきことのやうに、色々と理屈を申すは、真実の道にあらざること、明らけく候」(本居宣長)、「このかなしみを/よしとうべなうとき/そこにたちまちひかりがうまれる」(八木重吉)〉(本書より)
 そして、「そーいえば……」確かに、かなしみに涙する感情は、いいものだと思う。もちろん、歌や物語の世界である。本書の項目に〈「悲哀の快感」論〉がある。〈大西祝(一八六四―一九〇〇)は、明治の中頃に、「悲哀の快感(心理 文学上の攷究)」と題する論文を書き、なぜに人は、本来不快であるべき悲哀に快感を感ずるのかについて考察している。〉やっぱり、悲哀は快感だったのだ。ヨシ!! 問題はない。と、自慢げに、人の前で「悲哀は快感である」なんて、言い出すと、「なに言ってんだ!! こいつ」なんて、ひどいゴカイをまねくことになるだろう。
 〈大西は、五つの理由を挙げている。〈一つめは、悲哀を目撃し、それに比して自分が「悲哀なき有様」であることを認識できたとき、快感が生じるという「対照の作用」〉〈二つめは、自分が不快であっても、それとはまったく別の悲痛な出来事に出会うと、その不快さがそれに「更代」できるという「変換の作用」〉〈三つめは、落魄悲愁の惨状を見たとき、ある種の興奮や激情の念が湧いてくるという「興奮の作用」〉〈四つめは、文学・芸術上に現れた悲哀が自分自身の経験や想像と一致・符合したときに起こるという「観念符号の作用」である。〉〈五つめは、われわれが他者のために泣く「同悲の性情」においては、われわれの「狭隘なる利己の心」を脱して「我が本真の性」にもどることができるのであり、そこにこそ「悲哀の快感」である真の理由があるとしている。〉〈そして、最後に、「人は悲哀に訓練されて真正の楽境に至るの途を知る。こは固より人生の一の悲しき事実に相違なし。しかれどもその事実なる如何せんや」と、この論文を閉じている。〉(本書より)
 そして、「そーいえば」そうだというのが、〈近代日本の歌謡曲、とりわけ演歌、さらに、浪曲、浪花節、講談といったものをふくめて、その「かなしみ」表現の著しい特徴となっている。〉(本書より)
 歌手が歌っている時、目に涙がうっすらとにじむ。観ていて、確かに目撃しましたよ!! と、ジーンとして歌声をとらえる。歌手も、これはしめたものだ!! と、思いつつ歌を続ける。涙を売り物にしている歌手もいたりする。涙に酔い、いい歌を聴かせてもらったと、拍手するのである。そして、自分のかなしみと他人のかなしみとは違うものだと思う。自分のかなしみに酔いしれる場合もある。泣き上戸を相手にしていると、「またかー」と、いいたくなるものだ。







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