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評者◆安藤礼二
「自分」という井戸の彼方へ――「私」を外側から、クールになおかつ根底的に描ききった傑作「作家の超然」(絲山秋子、『新潮』)
No.2987 ・ 2010年10月30日




 村上春樹は、『考える人』(新潮社、二〇一〇年夏号)のロング・インタビューで、自身の創作の秘密について驚くべき率直さで、しかも客観的に語り尽くしている。ごく普通の生活を送ってきた自分にとって、書くべきことなどほとんど何もなかった。自分のなかに「ドラマや物語性」はまったくないと思っていた。しかし特別な存在である作家という幻想を捨て去ったとき、表面的な「私」の奥底に広がる普遍的な「私」の世界が立ち上がってきた。自分の内的世界に通じる「井戸」を見つけ、その「井戸」を深く掘り下げていくのだ。「僕自身が井戸の底に潜って」、「深く潜って、自分をどこまでも普遍化していけば、場所とか時間を超えて、どこか別の場所に行けるんだという確信が得られた」と。おそらくここで述べられている見解は、村上春樹個人を超えて、複製技術時代の極、書物の消滅が叫ばれる現代において、「作家」を志す人間すべてにとって切実なものであるだろう。
 舞城王太郎の「Shit, My Brain Is Dead.」(新潮)と佐藤友哉の「蠼
のすえ」(群像)は、最も若い世代による、村上春樹が提出した問題への解答と考えることも可能である。舞城は『ねじまき鳥クロニクル』を直接参照にしながら、「井戸」の奥に広がる別世界を、砂漠の戦場に据える。佐藤は、村上春樹がストラクチャー(物語構造)を作ることに失敗したと評したサリンジャーを意識的に反復しながら、その「なにもなさ」を逆手にとり、すべてが消え去ってしまうという予感に捨て身の抗いを見せる。佐藤の消滅に対する感覚、さらには武田泰淳の「蝮のすえ」を「蠼のすえ」と読み替え、「蠼」(ハサミムシ)を現代の作家のメタファーとして語る手腕は見事である――「蠼は名前の通り、尾端(お尻の近く)にハサミを持っています。翅がないので飛ぶこともできず、かといってハサミを捨てることもかないません。ハサミを手放した瞬間、は単なる虫になってしまうからです」。
 言葉という不器用な武器(ハサミ)しかもつことができず、しかも「いつ終わるのか解らぬ戦い」、「戦いなのかすら解らぬ戦い」を生き抜いていかなければならない現代の作家たち。だがしかし、この両作品に体現された舞城の力業、佐藤の感覚では、強固に構築されたストラクチャー――解けない謎さえも、その重要な構成要素となる――をもって立ちはだかる村上春樹の作品群には、まだまだ対抗することができないと思う。舞城は表層的で性急すぎ、佐藤は断片的で不定型すぎる。心の奥底の「井戸」を掘り進み、「文体と内容とストラクチャー」(村上前掲インタビュー)を整えていくのではない方法で、現代の小説を書くためにはどうしたらよいのか。その一つのすぐれた解答として、ビュトールが実験的に用いた二人称「おまえ」をリアリズムの新たな手法として駆使しながら、現代の作家と作品の在り方をごく自然に書き上げてしまった絲山秋子の「作家の超然」(新潮)がある。
 絲山は、頸部大動脈と大静脈の間にできた腫瘍を取り除く手術に臨む、一見すると自分と等身大の「作家」の「死」に直面した日常を、「おまえ」という二人称を通して、客観的かつ冷酷に描き出す。その筆力は、小説のリアリズムに新たな側面をひらくとともに、文学の未来さえも射程に据えた未聞のヴィジョンにまで到達している。
 「文学の終焉」とタイトルが付された最終章の、文字通り最後のシーンを、絲山はこうはじめている――「文学は長い移動を終えて、ついに星のように滅亡するだろう」、「小説は、意味と接続を失った文になり、散らばった文はやがて言葉の断片となり、やがて言葉であることもやめて、音を失うだろう」。そして、こう閉じる――「すべてが滅んだ後、消えていった音のまわりに世にも美しい夕映えが現れるのを、おまえは待っている。ただ待っている」。「私」を内側から掘り進めるのではなく、外側からクールになおかつ根底的に描ききった傑作である。
 絲山は述べる。「誰もが不特定多数からの反応を求めて発信をはじめたとき、物語は滅び始めた」、そして「文学は鮮度を失い、誰も食べたがらない残り物の総菜のように色を失い、粘りと腐臭を発し始めた」と。絲山はその廃墟の彼方に「美しい夕映え」を幻視した。
 舞城王太郎は今月のもう一つの作品、「ほにゃららサラダ」(群像)で、絲山と同じような情景を、美大生たちの会話のなかで、「うんこサラダ」として描き出す。「小綺麗に整えられているけどうんこ。食べられないどころか、すでに誰かの食べたものだし、栄養も全部抜き取られたカスの集まり。臭いし病気も持ってたり。それに生温い」。こう発言する高槻くんに惹かれた主人公は、他者との偶然の出合い、物との偶然の出合いを捉えることを可能にする写真を、自己の表現として選んでゆく。主人公が撮る写真は、高槻くんの新たな絵画を、高橋くんの新たな小説を生み出すための媒介となる。「私」ではなく、「複数」の偶然的な出会いからはじまる表現。舞城の今後の可能性は、こちらの作品の方にある。
(文芸批評)







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