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評者◆神山睦美
藤無染が説いた宗教理念の普遍性は何によって裏打ちされていたのか
No.2984 ・ 2010年10月02日




 『光の曼荼羅』において安藤さんが描き出す折口信夫のイメージには、独特のものがあります。『死者の書』に登場する藤原郎女(中将姫)に、折口自身、みずからを投影しているというのですが、そこには、おのれの存在を女性性とみなす折口のジェンダーについての思いがうかがわれるとされます。皇位継承の争いに敗れて悲憤の死を遂げた大津皇子(滋賀津彦)とは、そのような受動的存在を通して甦りを遂げるものなので、そこにはエロスの希求と死と再生の祈念とが深くかかわっているというのです。
 そのような折口のモチーフに影響をあたえたものとして『埃及 死者之書』が挙げられます。そこに語られるオシリスとイシスの物語に、同じように死者への鎮魂とエロスの希求という主題を読み取るというのが、安藤さんの手法といえます。折口の『死者の書』に導かれるようにして、大津皇子が葬られているという二上山への登頂を詠った吉増剛造の詩「オシリス、石の神」に「穴虫峠トイウトコロヲ通ッテ、二上山マデ、歯ヲクイシバッテ考エテイタ」という印象深いフレーズがありますが、そこでエロスの希求は死者への呼びかけとして昇華され、鎮魂のテーマがさらに深く形而上的といっていいかたちで詠われることになります。
 では、ここでいう死者とはいったい誰のことか。非業の死を遂げた大津皇子やオシリスの向こうに、彼らはいったいいかなる死者を見通しているのか。そう問いをたててみるならば、みずからのなかに、最も切実な思想の影を投じて去っていったかけがえのない「友」のすがたが現われてくる、これが吉増さんから安藤さんに通ずる答えであるということができます。折口にとってこの「友」こそ、仏教革新運動に身を投じ『二聖の福音』一書を遺したまま逝った藤無染にほかならないというのが安藤さんの考えです。
 こういう強いモチーフには、無意識のうちにも、かけがえのない「友」の死というテーマが仕舞われているのですが、吉増さんの「オシリス、石の神」には、これが全篇に影を投じていることが確実にうかがわれます。それはともあれ、なぜ藤無染は『二聖の福音』において、仏陀と基督をならべてその宗教理念の共通性を説いたのでしょうか。彼らのなかに生きている「自覚者」「義人」の面影を引き出すことによって、その革命的無神論者としての生き方を示したのが藤無染だったというのが、先に提示した解釈なのですが、安藤さんは、そこに古代キリスト教の教派の一つで、異端とされて排斥されたネストリウス派の教義を読み取ります。
 イエスを産んだマリアが「神の母」であるということを認めず、父なる神の言葉は、母胎を介することなく受肉しなければならないとするこの派の教義に、折口と藤無染の性愛関係の理念的根拠を見ようとする安藤さんの説は、たしかに刺激的なものです。しかし、私には、このネストリウス派(景教)をはじめとして、藤無染が、既成の仏教の理念を超えたさまざまな宗教のありかたに強い関心を示していたという指摘の方に、むしろ納得させられるものを感じます。それは、「新仏教」を拠点として仏教革新運動を進めていた鈴木大拙にも通ずるものであって、彼らは、後に折口が、「自覚者」や「義人」という言葉によって示した宗教的救済のありかたを、仏教キリスト教を問わず、イスラム教にもバラモン教にもゾロアスター教にも見通していたと考えることができるからです。
(文芸批評)
――つづく







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