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評者◆安藤礼二
「たわいない」が支える生――言葉のもつ運動性のままに作品が形作られていく「勝手にふるえてろ」(綿矢りさ、『文學界』)
No.2983 ・ 2010年09月25日




 さまざまなメディアでコミュニケーションの即時性と即効性が求められている。そのために言語表現は、なによりも意味を明確に伝えるものにならなければならない。無駄を省き、有効かつ有用な言葉だけが書店の、さらにはネットの、表現空間を駆けめぐっている。確かに書物の時代は終わりつつあるのかもしれない。しかしながら、言葉と言葉によって構築された書物を「もの」(オブジェ)のように愛でる人々は、数は多くなくとも、今後も存在し続けるはずだ。政治と経済という剥き出しの力の領域は大人の「男」たちに任せておけばよい。そこから排除されてしまった子どもと「女」の感性をもって、ただ美しいだけで、ほとんど意味という重みから逃れ出てしまった「もの」としての言葉を紡ぎ、「もの」としての書物を創り上げていけば良いではないか。『新潮』であらためて短期集中連載としてはじめられた長野まゆみの「デカルコマニア」は、そう語りかけてくるようだ。
 長野まゆみのヴィジョンと、スタイルはまったく異なりながら、しかし根底から共振するかのように、よしもとばななも、インターネットという「膨大な情報」の海のなか、「生理が全ての獣と宇宙空間を飛び回る意識の狭間で」、日常生活を織り上げていかなければならない人々の結節点となるような役割を果たす二人の姉妹を主人公とした「どんぐり姉妹」(新潮)を発表している。どん子とぐり子という対照的な二人の姉妹は、通常のコミュニケーションでは許されない、一人でも多数でもない、また同時に一人でも多数でもある「どんぐり姉妹」というユニットを作り、無数の無名の人々から発せられるさまざまな問いかけに、自分たちなりに答えを出してゆく。そこでは、即時性と即効性、有益性からはこぼれ落ちてしまう言葉のやり取りがよみがえる。よしもとはこう記している――。
 「みんなたわいない会話を交わしたくてしかたないのに、一人暮らしでできなかったり、家族の生活時間帯がばらばらだったり、意味のあることだけを話そうとして疲れていたり。人々はたわいない会話がどんなに命を支えているかに無自覚すぎるのだ」。おそらくこの一節に、文学という言語芸術がもつ非常に貴重な何かが語られている。ほぼ同時期にデビューしたよしもとばななと長野まゆみの、二十年以上にわたって自己の表現世界を守り抜いている一貫性に、人はもっと驚いた方がいい。そこにはファンタジーやメルヘンには収まりきらない、自己の表現世界に対する強靭な意志が存在している。綿矢りさの最新作「勝手にふるえてろ」(文學界)は、そのような「たわいない会話」を実に精緻に組み立てることによって形になった作品である。この作品では、世間一般で重要(有益)と思われていることは、ほとんど何も語られていない。二十六歳の一人の女性と、その女性が想像世界で永遠の片思いを続ける恋人イチと、現実世界で肉体的な接触を求められる恋人ニ。
 実際には成立していない三角関係のなか、絶滅鳥類ドードー――この比喩もきわめて秀逸である――のように不器用に生きていかなければならない一人の女性の、「たわいない」生活の断片。そこで主題となるのは、果たして自分の投げかける言葉は他者に届くのか、それとも届かないのかといった、日常生活では誰でもが経験する、些細ではあるが重大な問題である。「届きますか、届きません。光りかがやく手に入らないものばかり見つめているせいで、すでに手に入れたものたちは足元に転がるたくさんの屍になってライトさえ当たらず、私に踏まれてかかとの形にへこんでいるのです」。この鮮やかすぎる冒頭で、物語のすべてが語られてしまっている。イチには届かないものがニからは届き、物語の最後にそのニに固有名が与えられる。ただ、言葉のもつ運動性のままに作品が形作られていく。
 綿矢りさの方法とは対照的に、舞城王太郎は「ドナドナ不要論」(群像)で、限られた枚数のなかにあらゆる物語性を凝縮した、J・G・バラードのものとは異なった意味での「濃縮小説」の可能性を提示した。夫婦という男と女の対を中心に、妻のライバルとしての女たち、さらには子どもたちと親たちという、人間関係におけるあらゆる関係性の軋みが描き出され、関係性の極限として生と死、死と狂気という問題が提起される。綿矢りさと舞城王太郎の作品は、現代の文学表現における二つの極を体現しているかのようだ。世界の果ての浜辺で阿古屋貝に変身し、詩という真珠を自身の内から生み落とそうとした諏訪哲史の「真珠譚」(新潮)と、日常生活の認識を見知らぬ「もの」(オブジェ)の連鎖として描き尽くした長嶋有の「祝福」(文藝)を舞城王太郎に加えて考察してみれば、現代の男性作家たちもまた、単なる「男」を超え出て、未知なる表現の主体に到達しようとしていることが分かるだろう。空虚と凝縮、情報と物質。その狭間で現代の表現は可能になろうとしている。
(文芸批評)







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