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評者◆稲賀繁美
それでも船は行く――Extraterritorialと「移民船」という譬話
No.2982 ・ 2010年09月18日




 西側世界とその残余West and the Restという言い方がある。スチュワート・ホールの発明だという。ではそれは実際にはどのような仕組みになっているのか。具体的にイメージしてみろ、といわれると、自らの想像力の貧困に驚く。そこで、今一度比喩としての「移民船」を提唱したい。
 移民船といわれても、ピンとこないというのなら、ほかならぬタイタニック号を思い出そう。いまや人文学はtransnational humanitiesの時代だというが、国境を超えて自由に往来できる学術とは何なのか。タイタニック号の一等船室に居を構え、各国の有閑階級や富豪層と国際語を操って優雅な社交を満喫できる人種となることが、国際的に通用する学者の暗喩あるいは、あるべき理想的学術像なのだろうか。だが金素雲の『アジアの四等船客』を思い出すまでもなく、こうした特権階級の下には、船倉の大部屋に三等客室が控えていて、多数の移民たちが寿司詰めとなっていたはずだ。20世紀が体験した過酷なまでの移民状況の縮図となった蚕棚の境涯。それは母語もお国言葉の俚諺しか操れず、入植先での待遇も不確かなまま全財産を叩き、神戸から片道切符でインド洋経由の南米行き移民船に乗り込んだ人々、石川達三の『蒼氓』が描いた日本人ブラジル移民たちの境涯にも通じるだろう。そしてこれらの無告の乗船客の下には、さらに船底に缶室が控えている。そこで機関に石炭をくべる重労働に従事する単純肉体労働者たちの存在なくしては、もとより豪華客船の航行はありえない。古典的なマルクス主義の教えにしたがえば、万国のプロレタリアートの団結による革命は、こうした社会の最底辺から勃発することになっていた。
 デカプリオが主演を演じて、総じて女性客たちには不人気だった、リメイクものの超大型予算大衆娯楽映画。その主人公は、改めて思い返せば、密航者だった。乗船名簿に記載すらない幽霊船客、法律的には本来存在を許されないはずの無法者が、出入国管理をすり抜け、国際航路という「治外法権」extraterritorialの船内に、密かに潜入していた。ジョージ・スタイナーの意を汲んだ由良君美は治外法権を「脱領域性」に置換した。だが脱領域性の知性とは、外交官の仮面を被ったスパイなのか、それとも非合法越境者のお尋ね者なのか。須磨彌吉郎と大杉栄とのどちらが、民族主義を脱した「跨-国民人文学」trans‐national humanitiesの、原型的担い手として相応しかったのだろうか。
 越境者としての知識人、などと安易に述べたが、実際にはこれらの異邦人が呉越同舟のままに乗っている船という容器(イレモノ)を忘れるわけにはゆくまい。国境を跨ぐ航海といえども、国境の掟から自由ではない。船籍は形式的にせよどこかの国家に属さねばならない。そしてまたタイタニック号も、大英帝国のキュナード社とモーガンというニューヨークの大富豪が所有する投機財だった。たとえ密航者といえども、世界経済の支配構造とは無縁ではなく、所詮「国際標準」(和製英語の和訳)に密かに寄生することによってしか、公海を渡ってゆくことはできない定めだった。
 そこに破局がひと知れず忍び寄ってくる。滝壺へと向かうボートのうえで社交に現を抜かし、あるいは口角泡を飛ばす議論のうちに、船頭多くして船、氷山に接触せり、という顛末となる。カタストロフィーというが、冷静に考えれば、タイタニック号の海難は、船内に凝縮された世界大の社会矛盾が惹起した人災にほかならなかったはずだ。沈没不可避という状況でパニックが生じるが、そこに昨今の人文諸科学が直面している世界的危機状況の縮図をみることも可能なのではなかろうか。
 *国際日本文化研究センターで開催された「東アジアにおけるトランスナショナル人文学の可能性」(韓国・漢陽大学・比較歴史文化研究所との共催、2010年7月15-18日)の総括討論における筆者の即興の発言を要約した。組織者である林志弦教授の知性に、敬意と連帯のエールを送りたい。
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







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