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評者◆神山睦美
折口の「他界」とは、世界と人間のある根源的な非融和性を映し出す場所である
No.2982 ・ 2010年09月18日




 折口は、「神道宗教化の意義」において、みずからが提示した「自覚者」のイメージをトルストイから引き出してきていることを明らかにしています。しかし、これがトルストイだけではなくドストエフスキーにも、さらにはマルクスやヘーゲルやカントやルターといった西欧十六世紀以来の思想家のうちにも生きているものであることを、知らなかったとは考えられません。さらには、二十世紀の思想が、もっとも革命的であるとするならば、この「自覚者」の存在を思想の核に擁していなければならないということもわきまえていたといえます。現実の折口信夫が、どこまでこのような西欧思想の根本に通じていたかは、また別の問題です。
 重要なのは、折口の思想の根底にある超越的なものに対する強い関心が、大きな挫折のイメージを伴ってあらわれているということです。それを、不在の影を引いてあらわれていると言い換えてもかまいません。「自覚者」だけではなく「まれびと」についても、同じように言うことができます。時をおいて共同体をおとずれ、人々の安寧を祝福して去っていくものというだけではない。むしろ、「他界」といってよい領域から、苦悩や罪障によって召喚されたもの。そして、「他界」とは、世界と人間についての、ある根源的な非融和性を映し出す場所といっていいのです。苦悩も罪障も、不在も挫折も、すべてこのネガティヴな場所に由来するということができます。だからこそ、魂を鎮める「ことば」が「まれびと」の口から発せられるのです。
 このような折口の思想が、「新仏教家」である藤無染の影響のもとにかたちづくられてきたことを指摘したのは、安藤礼二です。安藤さんの、折口論は、民俗学と国文学の領域において織り成されてきた折口の像を、根底から書き換えたものといってよく、『光の曼荼羅』において、仏陀と基督のなかに生きる「自覚者」「義人」の面影を描き出した藤無染の『二聖の福音』を引き合いに出し、その革命的無神論者としてのすがたを引き出す手法は、瞠目すべきものです。
 もちろん、鈴木大拙などとともに仏教革新運動に身を投じた藤無染を、革命的無神論者と呼ぶことに語弊があることは承知のところです。にもかかわらず、安藤さんの指摘するように、藤無染には、大逆事件に連座した内山愚童、高木顕明といった社会主義的仏教革新運動の担い手に通ずる精神が認められるという点からも、このことにまちがいはないといえます。それだけではなく、この革命的無神論者は、神が存在しないということを、たんに行動的ニヒリズムとして表明しているのではありません。この世において最も奪われた存在への配慮が、どこからもやって来ない、にもかかわらず、そういう存在に対する共苦を絶やすことができないということを、思想の根底に刻み込んでいるのです。
 悲劇性というのは、このような思想に刻印されるものです。折口信夫が藤無染からうけとったのも、この容易に成就されることのない実存のありかたなので、それゆえに、みずからを超えたものに向かわずにいられないという思いにほかなりません。そして、そのような共苦を介してはじめて、おのれの存在が他に開かれたものであることに気づいていくのだと思われます。それは、自分を深く問うことがそのまま自分を超えたものを問うことに通じるということであり、自分を超えたものを問うことによって、この自分は他に対するものとしてあらわれるということにほかなりません。大正初期に書かれた『零時日記』の記述から、折口信夫のなかの愛の情熱を取り出して見せた安藤さんが、たくまずして述べようとしたのはそのことだったのではないかと思われます。
(文芸批評)
――つづく







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