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評者◆神山睦美
神の存在しない世界での「死」や「犠牲」とは
No.2981 ・ 2010年09月11日




 敗戦を神々の戦いの敗北とみなした折口は、西欧の一神教的な宗教理念の前に、日本の神々は敗れ去ったと考えました。しかし、それは、連合国の自由主義的イデオロギーの背後に、西欧キリスト教にみられるような唯一神的理念を見ていたからではありません。エルサレムの聖地を奪還しようとした十字軍が、異教的なるものを打ちのめすことによって世界の覇権を握ってきたことを、折口が知らなかったはずはありません。折口によれば、日本の神々が、西欧の神々に敗れたのは、神々への感謝の念を忘れ、礼譲を失くした生活を長きにわたって推し進めてきたからなのです。その結果、宗教的情熱の坩堝のようなものを、すっかり枯らしてしまったと折口は言います。その結果、何よりも現世の矛盾とたたかい、みずからは滅び行くことも辞せずにこの世を救おうとする者を遇する所作を見失ってしまったと言うのです。
 この、みずからは滅び行くことも辞せずにこの世を救おうとする存在を折口は義人と呼ぶのですが、ここにイエスの面影が投影されていることはまちがいありません。「自覚者」とは、そういう義人を迎えることのできる存在であり、そのためには、信仰だけでなく宗教的理念の普遍性に通暁していなければならない。いってみれば、みずからもまた「死」と「犠牲」を厭わない実存のありかたを身に帯びていなければならない。折口は、そのように考えて、神道が、キリスト教に通ずるような普遍宗教として再生するためには、この「自覚者」といっていい存在が求められなければならないと言います。
 このような折口の提言は、必ずしも整然と理路をたどることのできるものではありません。が、やはり稀に見るものではないかと思われるのです。それは、十六世紀以来の西欧の思想家、ルターやカントやヘーゲルやマルクスのなかに見えないかたちで生きつづけてきたモチーフであり、それが、二〇世紀にいたって、アレントをはじめとする何人かの思想家のなかに息づいていることは否定できないといえます。たとえば、これを存在しない神への祈りという言葉で受け取ってみるならば、「死」や「犠牲」というのが、神の存在しない世界において、どのような態度を取りうるかという理念と切り離すことのできないものであることがわかります。
 たとえば、大審問官の物語を語るイヴァンに、神が存在しないとするならば、すべてがゆるされるというテーゼがありました。これが、スメルジャコフを父親殺しへと唆した当のものであることはまちがいないのですが、一方でイヴァンのなかには、虐げられた幼児に象徴される存在への共苦が強くあります。神が存在しないというのは、この世において最も低い場所へと追いやられた存在に対する配慮が、どこからもやって来ない、にもかかわらず、そういう存在に対する共苦を絶やすことができない、そのような思いのなかからくみあげられたテーゼと考えることもできるのです。もしそうであるならば、「革命的無神論者」であるイヴァンとは、「死」と「犠牲」を厭わない「自覚者」の資格を持つ者ということができます。だからこそ、大審問官とイエスの物語を生み出すことができた。
 しかし、現実のイヴァンにそこまでの器量を見いだすことができないことは、誰もが認めるところです。スメルジャコフの自殺の後、精神に破綻を来たしたイヴァンは、みずからが「革命的無神論者」であることの重圧に耐えることができなかったと考えることができます。真の革命的無神論者には、たとえ神が存在しないとしても、むしろそのゆえに、存在しない神に祈るというパッションがあります。それは、同時にもっとも虐げられた存在、奪われた者へのコンパッションから兆してくるものといえます。イヴァンやアリョーシャを生み出したドストエフスキーには、このことがはっきりと分かっていました。その意味で、ドストエフスキーこそが、折口に先がけて、みずからは滅び行くことも辞せずにこの世を救おうとする存在についてのヴィジョンを絶やさなかったのであり、それは、ドストエフスキーの民族主義的宗教的熱狂を批判したトルストイにも共有されていたものといえます。
(文芸批評)
――つづく







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