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評者◆添田馨
詩の電子化をめぐって考えたこと(2)――識字体験の質における紙の本とWebの乖離
No.2980 ・ 2010年09月04日




 ひとつの詩作品が、紙の本の中で息をしている場合と、ネット上で自らをプレゼンしている場合とで、機能面からすれば単に流通形態が違っているだけであり、文学本質の観点からすればそこに根本的な差は何もないのだ、と言って済ませてしまいたい気もする。だが、どうしてもそうきっぱりとは言い切れないある未消化な感じが、私のなかにはいつも残ってしまうのだ。それは、何なのか。
 まず、縦書きと横書きの違いがある。特殊なものを除いて、紙の本は縦書き、Webのほうは横書きが原則だ。さらに、かたや紙面のインクの染みとして、かたや液晶画面のデジタル信号として、私たちにもたらす視覚効果においても、そこには文字どおり百八十度の開きがある。採用されたフォントの違いからくる影響関係だってあるだろう。つまり識字体験の質における両者の乖離には、なにか決定的なものが隠されているに違いない。けど、それはいまだ無意識の領野にあって、依然として私たちはそれを明示的に言説化することには成功していない、何かもやもやとしたものだ。
 ヒントのひとつは、文学作品を紙の本で読む場合とWeb上で読む場合との、意識内部における時間感覚の微妙な差に見出されるのではないだろうか。読み込みの行為における時間性と、検索参照の行為における時間性との違いとでも言い換えれば、もっと正確かもしれない。あくまでこれは象徴的な言い方であって、必ずしも紙の本を読むのが読み込みの行為で、Webで読むのが検索参照の行為だと言っているのではない。根本的な違いは、つまるところ一冊の本というメディアの全体を自分の身体の一部のように所有できたという掌握感が担保される識字体験と、それが一切担保されない識字体験という点に象徴される。つまり紙の本はマテリアルとしての有限性のなかに詩作品の無限の時間性を呼びこむ。対してWeb上において私たちは、ハイパーテキスト環境という無際限な参照体系の中に、それを読み取るよう強いられる。この違いは、決定的ではないだろうか。
 紙の本を読み込む場合、私たちは自分がこの一冊の詩集、一篇の詩作品を読了するのに投入すべき時間の量をあらかじめ漠然と了解することが可能だ。そして、この了解感はそのまま読書という時間的経験の質をも決定しているように思う。だが同じことをWeb上でやろうとすると、まったくそれができない。そのことがとても私を不安にさせる。あくまでこれは私の場合のことだが、何か本質に触れている感じがするのだ。
(続く)
(詩人・批評家)







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